農民と芸術

─宮沢賢治の『農民芸術概論』

 

「僕ら人間について、大地が万巻の書より多くを教える。理由は、大地が人間に抵抗するがためだ」。

サン=テグジュペリ『人間の土地』

 

 『農民芸術概論』は、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という一節は、ジェレミー・ベンサム流の功利主義的信念に対する批判と解釈され、最も有名な宮沢賢治の言葉として、しばしば引用されているが、彼の作品の中でも、特に、不当に扱われてきた。退屈が大嫌いで、意表をつくことが大好きな有閑人の代表、マリー・アントワネットですら、政治的・経済的改革の一つとしてモデル村をつくったのだから、真面目に受けとめられなくとも、やむをえない。改革はつねに上から行われることであり、革命はつねに下からなされるものである。賢治はこの理論をプロレタリア芸術論の一種として表明しているわけではない。だからと言って、これを、ある批評家のごとく、大川周明の『日本及日本人乃道』と通底するなどと主張するほどわれわれは愚かではないのである。『ザ・スターボウリング』の解説者だった故須田開代子プロのように、やさしい言葉をかけて諭してやりたいところである。

 『農民芸術概論』は、まず最初に、「農民芸術概論綱要」と掲げられ、「序論……われらはいっしょにこれから何を論ずるか……」、「農民芸術の興隆……何故われらの芸術がいま起らねばならないか……」、「農民芸術の本質……何がわれらの芸術の心臓をなすものであるか……」、「農民芸術の分野……どんな工合にそれが分類され得るか……」、「農民芸術の(諸)主義……それらのなかにどんな主張が可能であるか……」、「農民芸術の製作……いかに着手しいかに進んで行ったらいいか……」、「農民芸術の産者……われらのなかで芸術家とはどういうことを意味するか……」、「農民芸術の批評……他だし意表かや鑑賞はまずいかにしてなされるか……」、「農民芸術の綜合……おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術を創りあげようではないか……」、「結論……われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である……」と続く。

 これらの言明は箴言であると同時に、自然科学的証明であるが、演繹的・帰納的といった近代的なものではない。対立することも、発展することもなく、それぞれはただ「併存」し、プレ・ソクラテス的ですらある。賢治は言明が織り成すコスモロジーを構築したいのであって、その意味を説明するつもりはさらさらない。賢治は、日常の経験と観察を基盤にして、この言明を羅列している。『農民芸術概論』はテーゼなのである。この芸術論を既存の芸術論や美学との類似点および相違点を指摘し、体系化することは、この方法から考えて、その目標にふさわしくない、「理解を了えばわれらは斯る論をも棄つる」し、「畢竟ここには宮沢賢治一九二六年のその考があるのみである」以上、彼の発想を固定して考えることはできないのである。これを非難することも、擁護することもさほど難しくはない。芸術をめぐる理論には長く膨大な歴史がある。賢治の主張は、その伝統に照らし合わせてみると、決して真新しくも、突飛でもない。だが、農民と芸術について語ったものの中で、農業を産業として考えていた芸術家の手による芸術論や美学となると、極めて数少ないのである。従って、われわれは『農民芸術概論』を、賢治が農業を産業の一つとして把握した点から、論じるアプローチをとりたい。

 われわれは、第一に、賢治が農民を芸術の問題として語った理由を明らかにしなければならない。賢治が農民と芸術に対してこのような態度をとることは決して自明ではないのだ。賢治は芸術に関しては親和的だったが、もともと農業にこだわってはいなかった。賢治は、一九一九年秋ごろの保阪嘉内宛書簡において、「私ならば労働は少なくとも普通の農業労働は私には耐え難いようです」、と記している。彼は、盛岡高農時代の友人たちによると、体力はないし、不器用で、農作業がかなり下手だったらしい。その当時、岩手県内で中学よりもさらに進学しようとすれば、農業に関心を持っているかどうかは別として、盛岡高農を選ばなければならなかった。一九二〇年五月、盛岡高農の研究生を修了したとき、担当教官から助教授に推薦してもいいと打診されたのに対して、賢治は父と相談して辞退している。彼は親と対立することはしない。前年、家で家業の手伝いをしている間、彼は浮世絵の収集とセロリ、パセリ、キャベツ、カブといった当時では珍しい作物を栽培して気分をまぎらわしていた。父は、一九一九年八月二〇日前後の保阪嘉内宛書簡によると、賢治を「きさまは世間のこの苦しい中で農林の学校を出ながら何のざまだ。何か考えろ。みんなのためになれ。錦絵なんかを折角ひねくりまわすとは不届千万。アメリカへ行こうのと考えるのは不見識の骨頂。きさまはとうとう人生の第一義を忘れて邪道にふみ入ったな」と叱っている。けれども、同時代の文学者たちと比較してみても、賢治の行動は決して珍しくはない。だいたい賢治より前の石川啄木も「アメリカへ行こう」と考えている。このころの日本の知的青年にとってのアメリカは、一九世紀のヨーロッパの急進主義者にとってのそれと同じ「自由の国」である。なぜこう生きなければならないのか、なぜ香味野菜を栽培したのか、それは若き賢治の自由への希求の表明であった。つまり、賢治の空想の世界への散歩は、自由の束縛には敏感に反応する若者の束縛に対する回避の方法の一つなのである。農民は、あるときを境に、彼をとらえた。その決意は教師を辞職する前年の一九二五年に彼に起こったのだ。

 賢治のころの農民は、江戸時代の士農工商という身分制度によって規定された存在ではなかった。農民は商人や職人と同じ地位にあり、三者の間に優劣はない。農家に生まれても、商人にも、職人にもなれるのだ。条件が悪ければ、その仕事を人は選ばなくなる。農学校の卒業生は、きつく、不安定で、わりのよくない農民になることを嫌い、都市に出て、月給取りになるものが多かった。彼らの選択は決して非難されるべきことではない。若者の農業離れの原因は彼らの道徳的退廃ではなく、政府の政策の失敗や農業関係者の努力不足である。その意味で、日本の農業環境は第三世界に近い。セオドア・W・シュルツは第三世界の農村地域を研究し、『農業近代化の理論』や『世界農業の経済的危機』、『経済成長と農業』、『農業的誘引の歪み』といった示唆に富んだ著作を発表している。シュルツは伝統的な農民は合理的な「経済人」であることを強調する。彼らが新しいものをとりいれたがらないのは、シュルツによれば、農業拡大事業への意識の欠如、第三世界の多くの政府がとる差別的価格や課税政策によって、農場経営に対する経済的収益が不確実となることが原因である。第三世界の農村の貧困は都市偏向の発展計画−−急速な産業化と輸入代替−−の産物であり、それが農村に最低生活水準の自給生産を招いているのだ。けれども、日本の場合、労働環境を改善しないで、なり手がいないと文句を言うのは、怠慢にだろう。日本の農業にはこうした向上心に乏しいところがある。農業も、収入や労働環境において、ほかの産業と競争しなければならないのである。農業の近代化・合理化を重視しないで、いくらカンカン照りが続いても、雷様にちょっと金を裏で握らせて、雨を降らせてもらうわけにもいくまい。雷様は議員とは違うのだ。人は生活の条件のいいほうに移動する。江戸時代には移転の自由も職業選択の自由も認められていなかった。職業選択の自由は移転の自由を不可避的前提とする。江戸時代の農民にとって、土地と身分は生まれてから死ぬまで不変であり、それらは同じ意味を表わしていた。彼らは、時期によって性格は異なるが、一揆を起こしたとしても、身分制度の撤廃を目指したものではなかったのである。人々が農業を発見したとき、土地もまた発見した。農業の発見は土地の発見を意味している。職業は序列ではなく、傾向となった。にもかかわらず、農民の中に、地主と小作人という関係が存在し、資本家と労働者においては可能だったのに、この関係はいれかわらない。どんなに努力しても地主になれないのなら、小作人を放棄するのは自然なことだ。寄生地主制においては、農業経営や農村生活の指導・便益提供は地主に独占されていた。農民を寄生地主制と高率耕作料から解放し、自作農を創設したのは、日本人ではなく、リンカーンが一八六二年に実施した自作農創設法を前提にしたGHQである。

 賢治は、学力と経済力にある程度恵まれたため、盛岡農高へ進学した。だが、そこでは、馴れ親しんだ商人道徳とはまったく異なる道徳が支配していた。その道徳を選ぼうとしたときに、またもとの道徳に舞い戻らざるをえなかったのである。明治以後の学校を支配する儒教的イデオロギーは武士階級の道徳として普及していたものであって、江戸時代の商人や農民には無縁だった。彼らにとって、儒教は抽象的であり、卒業してしまえば、彼らはその矛盾に直面しなければならない。武士には、儒教は、江戸の政治体制から考えても、具象的な現実感がともなっていた。明治維新はクーデターであり、支配階級は武士であって、彼らは身分制度を解体させながらも、馴れ親しんだ儒教道徳を支配のイデオロギーに採用したのである。中国の戦国時代、諸子百家の一つに許行が始め、その死後消滅した農家と呼ばれる学派があった。許行は、神農の教えとして、儒教を差別主義と批判し、君主も民も平等に農耕して、物の価格も均一にすべきであると主張したのである。儒教は農業道徳とも対立するし、孟母三遷のエピソードが示すように、商業道徳とも相反する。あの進学はいったい何だったのかという疑念が賢治にわき起こった。農業に関心があって進学したというのなら、彼も納得できたろう。もしくは、農業には興味はないが、若いうちは見聞を広めたほうがいいから、進学したという目的があれば、家業の金融業を継いで、ゴージャスな雰囲気の女性をつれてパーティーに出席し、虚栄と消費を享受するのに忙しくて、虚脱感におそわれる暇もないはずである、賢治は、結局、学校に戻った。することがなくて、とりあえず、教師になった文学者は賢治以外にもいる。石川啄木や坂口安吾といった偉大なデカダンスはその代表である。彼らは、当然、教育勅語の望ましい影響など爪の垢ほども信じてはいなかった。ほとんとの文学者は自らの欠如、すなわち病気を書くが、賢治や啄木、安吾といった文学者たちは、そしておそらくわれわれも、ありあまる力の過剰さ、すなわち健康を作品に書いている。教員は、ある時期、(ありとあらゆるところて断られた石橋湛山がようやく職についた)新聞記者とならんで、自由で、社会的不適応の受け皿だった。今で言えば、われわれがそれにすらなれなかったとしても、予備校や塾の講師がそれにあたる。賢治は稗貫農学校に就職したとき、そこで、作物(普通作物・農産製造)、肥料、土壌、英語、代数、科学、気象、農業実習を受け持っている。賢治は、羅須地人協会を通じて、肥料設計や稲作指導をしていた。賢治は合理主義者・自由主義者である。そして、いささか錬金術師的であった。賢治はワインの製造法に関する特許をとり、その新しいワインを「電気ワイン」と名づけた。この「電気」は、八〇年代の「バイオ」と同じように、決して深い意味はない。ブランデー風の雑酒が「電気ブラン」と呼ばれた通り、「電気」は、当時、新製品によくつけられていた。

 一八七一年、明治政府は作付け制限を撤廃し、田畑に自由に作物を作ってよいとし、翌年には、地価を定めるため、土地の所在・所有者・地目・反別・地価を記載した地券を発行し、田畑永代売買の禁止を解いた。地券は、一八八六年に、登記法実施で廃止されている。寄生地主制において、地主は自らでは農業経営をしないで、土地を小作人に貸しつけて、高額現物小作料に依存する。地主は、地租改正・松方財政後、地方企業・銀行への投資や地方議会・帝国議会の選挙権などで社会的・政治的勢力を保持した。一方、小作人の中でも、永小作は小作人の土地に関する権利が強く、永代小作権を認められていた。一八七三年の地租改正以来、政府は永小作を整理する方針をとったので、地主・小作関係の紛争点になった。地租改正は、村ごとに土地台帳を作製(地押)し、官の丈量検査を受け、地主が地価の三%の地租を、豊凶による増減なく金納することになったが、農民による大規模な地租改正反対一揆が頻発したため、翌年、政府は税率を二・五%に軽減した。一八九九年、政府は耕地整理法を公布して、農業経営の合理化と生産増大のための耕地の区画整理、灌漑排水工事などの促進を図った。

 第一次世界大戦後の一九二〇年に、戦後恐慌が起き、米価が暴落した。一九世紀末ごろに、小作人たちは、小作料の減免・耕作権の保証を地主に求めるために、小作人組合を結成していた。第一次世界大戦による好況は農産物価格上昇とともに、小作料の高騰、耕地転売・投機化を促した。小作人たちは、小作料の減免・耕作権の確認を要求するために、小作争議を起こし、一九二一年に、その争いは最も激化した。翌年、初の全国規模組織の小作人組合、日本農民組合が、杉山元治郎・賀川豊彦によって、設立され、小作争議を指導し、戦闘的で、大規模な大衆運動もとることかあった。一九二四年に、小作争議発生の場合、当事者の申し立てにより裁判所が調停委員会をつくり調停することを定めた小作調停法が成立した。一九二六年、右派の平野力三が脱退し、日本農民組合は分裂した。昭和恐慌の中、生糸・繭価が暴落し、一九三〇年には、豊作により米価が下落、翌年の東北大飢饉により農村困窮が深刻化、小作争議も頻発した。これは農業恐慌と呼ばれている。

 一九三二年、斎藤実内閣に対して、農村不況を背景に、全国的な農村救済請願運動が展開された。長野朗らを中心に農本主義団体・農民組合などが議会陳情を集中的に行った。それを受けて、内務省と農林省を中心に農山漁村経済更生運動を推進した。彼らは、農村救済のため、自力更生と隣保共助を提唱し、産業組合を拡大して農民の結束を図った。ところが、同年、第六三議会では、農村匡救予算である時局匡救費が成立した。議会は寄生地主制の廃止など抜本的な変革にとりくむことなく、公共土木事業に農民を就労させて、現金収入を得させようとしたのである。つまり、政府は農業を見捨てたのだ。

 賢治が農民を選んだのは、それが政府からも人々からも見捨てられた存在だったからである。本来、農業も産業の一つであり、ほかのあらゆる産業との関係で規定される以上、それらと平等なはずだ。けれども、誰もが農業に絶望的な見通ししかたてられない。賢治は文学作品にそんな農民を、希望的に、描いたのである。農業の発展を抑制していたのは軍部である。軍部は、石橋湛山の『湛山回想』によると、農業を優秀な兵隊の宝庫と考え、そこが近代化・合理化されないことを望んでいたのだ。最も使い物にならない兵隊は商人出身者だった。賢治はその商家に生まれた。彼が馴染んできたのは商人の道徳である。賢治に関して論じられるとき、いつも農業との関連だけで語られ、この商人としての側面が軽視されている。確かに、彼は商人としてはうまくいかなかった。しかし、商人道徳への反発が農業への関心につながったと考えることはできない。この見解は論者の商人嫌いが原因である。農民は同情すべき被圧迫者であり、商人はその弱みにつけこむ恥ずべきぺてん師だというのが彼らの信念なのだ。商家に生まれたら、死ぬまで商人だということはもはやない。農民が商人になれるように、商人も農民になれるのである。農業の推移と無関係に商業が盛んになることはできない。商業はより発展するためには、農業が育つように助力しなければならないのだ。農業の問題点は流通である。商業と農業の協力が、産業全体の経済的発展には、不可欠なのだ。日本の文学は農村を描いてきた作品は多かったが、農民をとりあげたものはほとんどなかった。文学者たちは農村と都市の対立の図式を情緒的に考えていたのである。農村と都市の対立は自然と文化の葛藤に置き換えられる。賢治はその二項対立に頼らず、総体として、文化をとらえる視点を所有していた。産業から農業を把握する際に、情緒的である姿勢は許されない。「産業システムを打倒する革命」と「野生的自然」への回帰を訴える「ユナボマー」ではないのだ。農村を扱うことが農民や農業を描くことではない。都市と農村の対立は文学が好んでとりあげるテーマであり、農業は、この対立によって、消されてしまったのである。だが、農業はほかの産業と対立しないし、都市と農村も対立しないのだ。農産物は、農民が生産して、商人により、流通され、販売されるのであって、農業と商業は共存しなければならないし、農民が商業に無関心、自閉的思考でいられることはないのである。賢治は、「リアリズムとロマンティシズムは個性に関して併存する」と言っているように、対立によって問題を設定しない。彼は概念を関係として把握する。『農業芸術概論』は二項対立によって把握された農業に関する認識を疑う試みだ。賢治は、むしろ、重農主義者である。彼は重農主義の理論骨格を芸術理論に応用したのだ。

 フランス革命前夜に、重農主義者と呼ばれる経済学者が登場した。彼らはアダム・スミスに影響を与えている。ルイ一五世の愛人ポンパドゥール夫人をパトロンに持つ宮廷医のフランソワ・ケネーは、経済学を生産・流通・消費を全体系として把握した最初の試みである『経済表』を一七五八年に発表し、農民の税金軽減と穀物輸出の自由化を主張した。ケネーは富の源泉は農業生産にあり、農業生産増大のために、自由放任を提唱したのである。自然法秩序は脆い。ところが、国家権力は、経済全体を見ないで、政治的な妥協により、短期的な政策を打ち出して、それを破壊しかねない。「この世にあるすべての物事にとって、乱用は秩序のすぐ隣りあわせにある。(略)社会の階調の中に一つでも間違った音調が挿入されても、政治機構全体はその効果を感じとり崩壊してしまう。調和が再びよみがえるのは、エピクロスの原子が偶然に堆積した結果として世界が生成するのと同じくらい困難である」(ケネー『自然法則』)。彼の弟子のアンヌ・ロベール・ジャック・テュルゴーは商人出身だったが、その理論を受け継ぎ、財務長官に就任して財政再建に努力したが、宮廷や特権身分の妨害にあい、一七七六年に失脚した。テュルゴーは国家の権力と機能を制限し、農業とその「純生産」に対する課税負担となる公共支出は最小限に抑えるべきだという政策を実行しようとしたのである。恣意的で御都合主義的な課税に一定の秩序を与え、社会的総資本の再生産の縮小を回避することを意図した。両者とも、『百科全書』の執筆者だったように、合理主義者・自由主義者だった。ケネーやテュルゴー以外では、ミラボー侯、デュポン・ド・ヌムール、メルシエ・ド・ラ・リビエール、ボードー師、ル・トローヌらが属しており、重農主義はこうした経済思想・政治的主張・理論体系を一括した呼称である。ケネー以前の重農思想の先駆者としてボアウギュベール、ボーダン、カンティヨンがあげられるけれども、ケネーは農業を重視したにとどまらず、資本制的大農経営に着目した点で彼らと異なっている。『経済表』は、長い間、黙殺され続けたが、一九七三年、投入・産出システムと呼ばれる産業関連分析によってヴァシリー・レオンティエフがノーベル経済学賞に輝いたことで、再評価される。投入・産出システムに基づいてレオンティエフは、『国内生産と外国貿易』において、アメリカの輸出品が労働集約的であるのに対して、輸入品は資本集約的であり、これはヘクシャー=オリーンの定理に矛盾することを指摘した。アメリカ合衆国のように、ヘクシャー=オリーンの定理によれば、労働に比べて資本が十分に恵まれた国であれば、高い資本−労働比率で生産された商品を輸出し、低い資本−労働比率で生産された商品を輸入する傾向を持つはずなのだ。これはレオンティエフの逆説と呼ばれている。各産業部門がほかのあらゆる産業と売買するものを一つの大きな産業連関表で示すと、農業の生産の増大がほかのすべての産業の売上高に及ぼす影響が計算できるようになる。ケネーは、ハーヴェイの血液循環図の一つを参考にして、『経済表』を考案している。今日、しばしば経済を人体の循環器に譬えることがあるが、経済科学はその起源から医学を思考の基盤にしている。

 さらに、ケネーは、『農業哲学』において、現代の主流派経済学を支配してきた原理を次のように述べている。

 それぞれの人間が自分のためにのみ働いていると信じていながら、実際は他人のために働く結果になるというのが、秩序正しい社会のもつ魔術にほかならない。この魔術は(略)最高至上者が(略)父としてわれわれに経済調和の原理を与え給うたことを示すものである。

 すべての事物は相互に関連し、すべての現象は相互に依存しているのと同様に、人間の経済的な行為も、「不変で、確実で、可能なかぎり最高」な「自然法」にしたがっている。自然法は、ケネーの『農業王国統治の一般準則』によれば、「最も完全なる政治の基盤であり、あらゆる実際的な法律の根本規定」である。この複雑な経済循環を貫いている自然法秩序を人間が見失ってしまわないために、その仕組み全体を単純化された形で表現する必要がある。

 今日では、重農主義は農村票をあてにしている保守的議員と利権に寄生する怠惰な農業組織の構成員の間にのみ普及しているが、当時は、革新的思想だった。重農主義者はすべての富は農業に基づくと考えたのである。農業という分野にのみ、生産の努力が自然の贈物としてコストを上まわる剰余を生み出す。商業や製造業は利益をもたらさない。それらは、必要性は認められるものの、不毛な産業だ。農業こそが基幹産業なのである。農業が作り出す剰余が「純生産」であって、ほかのすべての生産者を支えているのだ。

 重農主義者にとって、地主制には問題点が多かった。いったん土地が個人所有になると、自分が一度も種をまいたり、胞子をうえつけたことのない土地から、収穫を得ることを望み、自然の生産物に対してさえ地代を要求する。地代は土地使用に対する価格だが、土地にかかわり、小作人が支払うもののうちで、最も高い。地代は独占価格なのだ。地代とは土地の供給に対して単位時間あたりに支払われる値段である。労働と資本はある使用目的から別のものへ転化できるが、土地はそれができない。必要なときは、ほかの地代を払っている使用地ではなく、遊んでいる土地から選ばなければならない。重農主義者は、古典派同様、地代を農地のみの占有物と見なしている。地主が土地改良に費やしたものや得られうるものと比例関係にあるわけではなく、農民が与えることのできるものに比例するのだ。彼らは地主とその経済社会における役割に対して懐疑的である。地主は不生産的労働によって支えられている。けれども、賢治は地主とほかの階級との間に調和があることを信じた。と言うのも、地主はほかの階級の富が殖えたとき、地代をあげることができたからである。重農主義者は必要価格以上の資本家の儲けが地代にまわると考えた。物の値段は、賃金を払って、なおかつ利潤を「カンジョウニ入レ」て高いか、低いか、適正かどうかが決められるのだから、どれにしても地代を払えるはずなのである。デヴィッド・リカードは「農業利潤の法則」を唱えた。農業を例にとって、その法則によると、製造業の利潤の高さを計ることができる。雇用者は、穀物−−日本では、特に、米−−に換算して、賃金を払わなければならない。もし製造業者が農民より儲かれば、農民は製造業に転職し、逆の場合は、製造業者が農業に転職するだろう。

 農産物は過剰に生産される傾向にあるのか、それとも不足しがちなのかのうちで、どちらの立場をとるかによって、理論は変わる。農産物の生産過剰による不況は一度あったが、賢治は、明らかに、後者である。彼はセーの法則を信じているのだ。フランスの経済学者ジャン・バティスト・セーは供給がいつも需要を生み出すと考えた。一つの産業は市場の需要以上のものをつくりだせるが、経済全体では、それができない。総需要と総供給は相互依存的であり、完全に独立してものではないのだ。生産のみが需要を決定するから、使用されない資本はないのである。消費でき、売れる見こみのないものは誰も生産しないし、買う見こみがなければ、ものを売らない。生産すれば、自分自身の製品の消費者になるか、他者の製品の買い手=消費者になる。賢治は、農民は、稲作に限定せず、多様な作物を生産すべきだと考えた。農業への政府の干渉は極力少なくし、農産物の種類は、歴史的・社会的状況に応じて、変動させることが必要だ。賢治は米という中心を排除する。多くの農民、すなわち稲作農民は米を中心に農業をとらえていた。農業は、相異なるすべての農産物の相対的な関係によって、構成される。米を中心にしたハイアラーキーが農業なのではない。総体的な農産物の関係形態が農業である。

 重農主義者であったが、賢治が労農党のメンバーに接触するなど、社会主義に関心をよせていたことは確かである。当時、右翼的な農本主義とならんで、社会主義などが農業や農民に関する政治思想として一般には流通していた。一九二六年、労働文学の代表者、葉山喜樹が『セメント樽の中の手紙』と『海に生くる人々』という小説を発表している。『種撒く人』(一九二一)を皮切りに、『文芸戦線』(一九二四)が創刊され、プロレタリア文芸連盟(一九二五)が結成、青野季吉の『階級闘争と芸術運動』(一九二三)や佐々木孝丸の『文学革命と革命文学』(一九二四)、細井和喜蔵の『女工哀史』(一九二五)などプロレタリア文学の理論的著作はすでに登場していたが、自然発生的な葉山喜樹の作品は、組織志向の文学者からは無視されたけれども、中野重治ら若い文学者たちにインパクトを与えた。しかし、葉山喜樹は党による運動には参加せす、日本の労働運動は、ロシアと同様、都市の工場労働者が中心に落ち着いたのである。中国では、日本とは違い、十年後、毛沢東が農業を重視し、レーニンがプロレタリア革命の使命を担わせた都市の労働者の代わりに、農村・農民に依拠する武装解放区闘争を創始したのだ。

 しかし、賢治は、プロレタリア文学者と違い、あくまでも、百科全書派の重農主義者である。彼は対立を好まない。賢治を日本の官憲は取り調べをするという麻薬犬以上の嗅覚を発揮した。彼らは、便利なことに、匂いの源を自らの足につけ、気の向いたときに、その目の前にいた人にそれをなすりつけるのである。日本はどこまでも日本なのだ。日本では、対立だけでなく、何らかの根源的主張をしようとすると、その人を権力者たちは排除しようとするのである。

 農業不況において、農民と土地の結びつきに問題があることは火を見るよりも明らかである。農民と土地の結びつきについて、われわれは「月の暗い面」(ピンク・フロイド)、すなわち困難な問題点をあげる伝統的な手段を講ずる族議員や官僚には飽き飽きしている。貧困の原因を考えることは経済学的課題であるけれども、彼らがいかに賢明で有能で慈悲深かったとしても、この解答は多種多様で決定的なものは、現実に貧しい人々がいる以上、何一つとしてない。ただはっきりしているのは、自営農地のないところには民主主義は成立しないということだ。植物に生体防御作用があるように、農民はさまざまな仕事を自力で処理してきた。農作業は退屈な繰り返しの多い骨折り労働であることにかけては比類ないものである。農民はこれから辛抱強さを身につける。人は他人が見ていないところでは、手を抜くという傾向がある。プラトンの『国家』において、グラウコンは、ギュゲスの指輪の譬話を用いて、この疑問をソクラテスに問い尋ねている。これを是正する何よりの方法は、彼らを強権によって厳しく管理することではなく、自分が独立した存在であり、努力は報われ、怠惰は罰を受けるという制度を整えることである。「正しくあること」と「正しく思われること」とは違うのだ。保守主義者は他人の信条も自分の財産と同じだと考えて、管理しようとするが、農産物の生産効率をあげる新しい方法や有効的な技術を教育されなければ、投資や改良の意欲も失せてしまう。小作人の収入は利己的な地主が妥当と思う程度にまで低く抑えられていた。地主は小作人を土地に縛りつけるための工夫を編み出すことにかけては有能である。もっともすべての収入を小作人に分配したところで農村の貧困は好転しなかったであろう。機械と化学薬品、改良品種が農村に入ってきたことは都市と農村の貧困の均衡をいささか破ったけれども、東京行きの汽車の運賃のほうがはるかに安上がりだと気づくのにさほど時間はかからなかった。この貧困の均衡とその拘束力に対する農民の解決法の一つは、彼らの目指す場所に住む人々にとっては望ましいものではなかったのである。農村の貧困の救済策として都市への移住を説く前に、先に触れた通り、政府は出稼ぎ労働を奨励した。出稼ぎ労働は貧困から脱出するための大きな流れになったのである。そして、農村の純朴な青年が都市の悪に染まり、犯罪者へと身をもち崩すという三面記事の物語が一般に提供されたのだ。労働生産性の高さは彼らの貧困の記憶から生ずる強迫観念によって達成されている。過酷な労働条件は、金が入ってくる分、厳しい貧困よりもましなのだ。

 とは言うものの、今では、農民は自分がどれほどひたむきに労働に献身しているかを語ることを最も好むが、われわれは年寄りの農民のこうしたまやかしにはいつもうんざりしている。彼らは嫁の農業に対する愛着のなさを非難するときに情熱を使いきってしまうので、その労働は惰性に支配されているのである。彼らは、いかに同じ労働時間であっても、朝早起きすることは、どれだけ質的に高いかを主張する。しかし、それはただ彼らが高血圧だということを証明するだけなのだ。彼らは早起きによって三文以上に得をしていることは明らかで、おまけに選挙が近づけば、格安の料金で議員のお酌つきの温泉旅行に行けるとあっては、労働価値説に照らすと、おそらく最も暴利を貪っている労働者である。農民に必要なのは見るからに悪そうなヤクザ的ではなく、ブラウン管を眺めている善良な市民の同情をかうだけの結婚詐欺師的素養にほかならない。選挙を前にした農民と議員の出会いは、この世で、テレビのスペシャル番組のプロデューサーと霊能力者のめぐりあいとならび、最も甘美なものの一つである。議員は自分が投票されるのは人格であって金ではないと公言しているし、財界人は政治献金と称して政治家を買収しているじゃないかと言われても、それでは、まるで、賭博が儲けるために賭けるものだとギャンブラーが主張するのとまったく同じである。

 賢治は、そういう環境の中、「本当の百姓」になると次のように書いている

 わたくしもいつまでも中ぶらりんの教師など生温いことをしているわけには行きませんから多分は来春はやめてもう本当の百姓になります。そして小さな劇団を利害なしに創ったりしたいと思うのです。

(一九二五年四月一三日杉山芳松宛書簡)

 来春はわたくしも教師をやめて本当の百姓になって働らきます。

 いろいろな辛酸の中から青い惣菜の毬やドロの木の閃きや何かを予期します。

 わたくしも盛岡の頃とはずいぶん変っています。

 あのころはすきとおる冷たい水精のような水の流ればかり考えていましたのにいまは苗代や草の生えた堰のうすら濁ったあたたかなたくさんの微生物のたのしく流れるそんな水に足をひたしたり腕をひたして水口を縫ったりすることをねがいます。

(一九二五年六月二五日保坂嘉内宛書簡)

 わたくしも来春は教師をやめて本当の百姓になります。

(一九二五年六月二七日斎藤貞一宛書簡)

 先入観や偏見によって嫌っていたもののほうが、それが解けたとき、のめりこんでしまうものである。網野善彦が指摘しているように、江戸時代では、百姓と農民はイコールではない。百姓は農耕だけでなく、海運業や商工業に従事し、諸農村の間にはさまざまな交易ルートを結んでいた。農村は自給自足の社会ではない。そういう認識がある賢治は「本当の百姓」という言葉を使っている。「本当の百姓」は実際の百姓とは違う。それは実体ではない。「本当の百姓」は政府やほかの産業によって圧迫される弱者としての農民ではないのだ。いかなる抑圧に対しても自主的に行動する強者としての農民である。誰でも農民になれる時代において、農民は階級ではない。それは問題である。

 一九二六年四月一日付の『岩手日報』に当時の賢治に関する次のような記事がある。

 花巻川口町宮沢政治郎氏長男賢治(二八)氏は今回県立花巻農学校の教諭を辞職し花巻川口町下根子に同士二十余名と新しき農村の建設に努力することになった。

 きのう宮沢氏を訪ねると現代の農村はたしかに経済的にも種々行きつまっているように考えられます、そこで少し東京と仙台の大学あたりで自分の不足であった「農村経済」について少し研究したいと思っています。そして半年ぐらいはこの花巻で耕作にも従事し生活即ち芸術の生きがいを送りたいものです、そこで幻燈会の如きはまい週のように開さいするし、レコードコンサートも月一回位もよおしたいとおもっています。

 幸い同士の方が二十名ばかりありますので自分がひたいにあせした努力でつくりあげた農作ぶつの物々交換をおこないしずかな生活をつづけて行く考えです。

 と語っていた、氏は盛中卒業後盛岡高等農林学校に入学し同校を優等で卒業したまじめな人格者である。

 こういう話を耳にすると、ビック・モロー扮するたたきあげの庶民派サンダース軍曹とリック・ジェームソンのインテリ上官ヘンリー少尉の姿が忘れられないあの『コンバット』を思い起こす。「農作ぶつの物々交換をおこないしずかな生活をつづけて行く考え」であったとしも、これはプルードン流の「貨幣はいらないが商品はほしい社会主義」(マルクス『哲学の貧困』)ではない。人間は物々交換をやめて、貨幣経済を行い始めたことによって、堕落が始まったという貨幣を原罪にする発想は素朴である。農産物は流通され、貨幣によって売買されることによって、商品になる。「流通は、物々交換の場合にみられる、自分の生産物の譲渡と他人のそれの修得との直接的同一性を、販売と購買との対立に分裂させることによって、物々交換の時間的・場所的・個人的な諸限界を打ち破る」(マルクス『資本論』)。賢治は対立を斥ける。彼が物々交換を提唱したのは、「販売と購買との対立」を解消し、それを「併存」させるためである。賢治のころは、議員や官僚、国公立機関への批判がタブーであったが、今日では、言論機関は、民間企業からの広告収入を配慮しなければならないので、民間のほうが叩きにくい。国鉄時代は雑誌や新聞にいくらでも国鉄への批判記事が載っていたのに、JRになってからは、それらはほとんど見られなくなった。流通は、このように、「販売と購買との対立」を助長することも少なくない。アーノルド・トインビーは「西欧文明の運命は共産主義との闘いよりも、むしろ、広告との闘いにかかっている」と言ったが、賢治はこの「闘い」についてはるかに進んだ見識を持っていたのである。「ブルジョア的文明社会では、労働は矛盾し、大衆は最上の食べ物を受けるにはあまりにも貧しい。この社会では、よりよい食事をしている者は、その生産物を栽培する者ではない。つまり、美食者の美食ということは、栽培とはなんら直接の関係をもたない。それは、生産と消費が同時に一人の人間に影響する集団的機構にまだ達していない他の機構と同じに、ただ自己の欲望を満足させているにすぎない」(シャルル・フーリエ『総合的社会主義要綱』)。賢治の試みは一つのロビンソン・クルーソー的実験なのだ。この交換体系を維持するにはある程度の生産規模がいる。物々交換が実施されるには分業が進んでいなければならないのである。「ある民族の生産諸力がどれほど発展しているかは、分業の発達がどの程度かによって一目瞭然に示される」(マルクス=エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』)。

 こうした生活の中で賢治は芸術を楽しんでいたわけだが、それは西洋のものが中心だった。芸術は説教ではない。「誤まれる批評は自らの内芸術で他の外芸術を律するに因る」。芸術が生活に入りこみ、その芸術作品がいいか悪いかを自由に判断できる基盤がなくては文化にならない。「産者は不断に内的芸術を有たねばならぬ」。華道や茶道といったいわゆる日本の伝統芸術は、現状では、芸術ではなく、説教にすぎない。われわれの通っていた大学のある茶道教師にいたっては、月謝はピン札でなければ、受けとらないというから、俗物極めりというところだ。「芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した」。おそらく彼女は、それによって、自分が誘拐犯ではないとでも言いたいのだろう。こういう俗物には自主的な改善や進歩という姿勢がない。「批評は当然社会意識以上に於てなされねばならぬ」。「批評に対する産者は同じく社会意識以上を以て応えねばならぬ」。この「社会意識」には伝統芸能以上に、西洋の芸術のほうが望ましかったのである。

 賢治は、「農民芸術とは宇宙感情の  地 人 個性と通ずる具体的なる表現である」、と定義している。「そは直観と情緒との内的経験を素材としたる無意識或は有意の創造である」し、「そは常に実生活を肯定しこれを一層深化し高くせんとする」ものである。賢治は、その農民芸術の「分野」として、「声楽」、「器楽」、「散文」、「詩歌」、「演劇」、「舞踊」、「芸術写真」、「絵画」、「彫刻」、「劇」、「歌劇」、「有声活動写真」、「香味」、「触」、「演説」、「論文」、「教説」、「建築」、「衣服」、「工芸美術」、「園芸営林土地設計」、「料理」、「生産」、「労働競技体操」をあげている。農民芸術には、同時代の未来派やシュルレアリズムと同様、ありとあらゆる芸術が含まれるのだ。多くの芸術理論が否認してきたものまでここにはある。「もとより農民芸術も美を本質とするであろう」。そして、「『美』の語さえ滅するまでに それは果しなく拡がるであろう」。つまり、賢治の農民芸術は一つの文明全体を意味しているのである。

 賢治と同様、ヴォルテールも人々を集めて、芸術活動を行っていた。啓蒙主義は諸学を一つのサイクルに横並びで収束させる発想であるから、自由放任的で、反中央集権的思想である。自由放任は重農主義の標語であるが、これは自然法に基づいている。「その状態は人間に自分の行動を命じる完全な自由がある状態であり、自然法の限界内では、他人のゆるしを求めることもなければ、他人の意志をまかせることもなしに、自分で適当と思うとおりに、自分の所有物や人格を処理できる完全な自由の状態である」(ジョン・ロック『市民政府二論』)。自由放任主義者は生産と富の増大を、個人の経済活動に対する国家的規制の除去に求め、「最も少なく経済的に支配する政府が最もよい政府である」と主張する。農民が貧しいのは政府の指導の不足ではなく、政府の干渉が原因である。農民の自主性に任せておけば、農産物の収益は増大する。政府が介入しすぎるため、農民は商業に不慣れになっているのだ。ヴォルテールが「わたしは、お前の言うことに反対だ。だが、お前がそれを言う権利を、わたしは命にかけて守る」と断言したように、啓蒙主義は知識の独占禁止とその公開を求め、知識を自治するのである。「職業芸術家は一度亡びねばならぬ」。賢治は「職業芸術家」による芸術の独占を解体し、農民自身による芸術自治を宣言する。ジェームズ・ブライスは、『アメリカ共和国』の中で、「地方自治は民主主義の学校」であると言ったが、芸術自治は農民の学校である。

 重農主義は、農産物に決して恵まれない島国のイギリスではなく、農業国フランスで発達した経済理論である。賢治は重農主義が国の政策になればいいとは考えてはいない。彼は花巻の農民の問題としてこの理論を編み出したのである。島国の日本が発展するには、貿易をぬきには語れず、その耕地面積から考えて、日本は決して農業国にはなれないのだ。士農工商は鎖国政策の中で維持され、鎖国の間、諸外国との貿易は決して多くはなかった。農業の地位は、明治政府の工業中心の富国強兵政策下で、江戸時代に比べて、相対的に低下した。政府の農業に対する政策は消極的である。政府は農業を見捨てているのに、それを頼っていても仕方がない。政府なんぞ無視して、農民は自分たちで農業がより発展することを考え、学問に励み、新聞を発行し、芸術活動を楽しむことを積極的に試みたほうがいい。「おれたちはみな農民である ずいぶん忙しく仕事もつらい」。「もっと明るく生き生きと 生活をする道を見付けたい」。「いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである」。「いまやわれらは新に正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ」。「かくてわれらの芸術は新興文化の基礎である」。「芸術をもてあの灰色の労働を燃せ」。「ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある」。多くの農民は、被害者意識や無気力に精神が満ちた中、毎日を惰性で生きている。賢治は前向きだ。これは日本人に最も欠けているものである。われわれは、田中角栄流の道路と鉄道による都市と農村の接続は、農村をますます過疎化させるだけだという実情を知っている。プラトンは、『国家』の中で、「医術は、医術の利益になることを考察するものではなく、身体の利益になることを考察するものだ」と書いているが、技術は技術のためではなく、その対象のために行われなければならないのに、角栄には地方分権の認識が乏しかった。東北の寒冷地だからと言って、清貧で耐えなければならないと説くよりも、そこに花を咲かせ、実り豊かな農産物にあふれさせる方法を考えたほうがいい。賢治はつねに後者を選ぶ。彼は、そして、その状態が到来するまでは、品よく満足して待つ。「詩人は苦痛をも享楽する」。

 農民のための新しい道徳を編み出して、品格を高め、新秩序を立て、生活を改善し、共同作業・相互扶助を考案しなければならない。賢治はそれぞれの相互作用を利用して、相互に「幸福」を得る働きを高めていくことを、争いではなく、建設的な仕事で真価を発揮することを見ている。最初は芸術を縁遠く感じるかもしれないが、農民生活にそれが入りこめば、親しめるものになる。パシフィック・リーグ好きで、秋田の農家で育ったマンガ家の矢口孝雄は、かつて、東京スタジアムで、大毎オリオンズ対東映フライヤーズのゲームを見にいったとき、スタンドから四番バッターに「百姓、郷里に帰れ! 帰って、肥え桶でも担いでいろ!」という野次がとんだ。そのバッターは秋田出身だった。矢口孝雄は悲しくなり、ゲーム観戦どころではなくなってしまった。日本では、芸術を近いものとしてこなかったから、幼いころに大人が一方的におしつけたり、成人になって始めるため、一つの芸術だけを身につけるのみに終わり、それぞれの芸術が相互に関係せず、孤立してしまっている。芸術活動に厚みや幅がないため、日本の芸術は古典化を急ぐのである。日本はあらゆるものが流れこんでくる墓場である。日本にやってきたものは死を迎えるほかない。日本で栄えた多くのものは、華道のように、遍歴の地では絶滅ないしは希少になっている。日本の文化は死後の世界として成り立っているのだ。日本の文化は、本質的に、オカルティズムであり、構造主義的であるため、バルトやレヴィ=ストロースに絶賛される。日本には、必然的に、歴史がない。日本文化の特徴は歴史性がないことだ。日本の文化は「うらめしい」とその本来の地に対して復讐するのである。日本文化はすべてにオカルティズムに基づいている。

 賢治が農家出身だったら、羅須地人協会のような実験はしなかったろう。自分の家族の生活がかかっているところで、実験は許されない。しかし、だからこそ、賢治はその仕事にすべてをかけたのである。「誰人もみな芸術家たる感受をなせ」。農家の娘が『蝶々夫人』を歌いながら、稲刈りをしてもいいし、息子がタップをふんで、脱穀したってかまわなければ、みんなでミレーの絵を気どって、落穂拾いをしてもおもしろい。遊びながら、労働をするだけでなく、遊ぶように労働をすることこそ望ましい。一般にポート・ワインと呼ばれるポルトガルの「ポルト(Porto)」は、ドウロ川上流のアルト・ドウロ地区で造られたワインをドウロ河口のヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアの町まで運び、そこで貯蔵熟成し対岸のポルト市から積み出す酒精強化ワインであるけれども、この生産には音楽が欠かせない。数人の楽団を先頭に、ブドウ畑に向かい、摘みとり作業の間、楽団は演奏を続け、終わると、楽団が演奏しながら帰路につく。さらに、ブドウをワインにするため、楽団が演奏を奏でる中、それにあわせて、作業員はダンスを踊りながら、素足でブドウを三交代で、十二時間に渡り、踏み続ける。まさに、「ピアニストを撃つな(Don’t Shoot Mw I’m Only The Piano Player)」だ。賢治が夢見ていたのはこういう農作業の光景である。賢治はフーリエ的実験を行っている。彼の理想郷はシャルル・フーリエの「ファランジュ」である。「然もめいめいそのときどきの芸術家である」。「ここには多くの解放された天才がある」。だからと言って、小俣雅子が文化放送の『吉田照美のやる気MANMAN』の公開で歌い、人々を凍らせてしまった『天城越え』が芸術かどうかは話は別である。「個性の優れる方面に於て各各止むなき表現をなせ」。芸術活動を大げさに考えることはない。生活に潤いをもたせる気晴らしの一つだ。「創作自ら湧き起り止むなきときは行為は自ずと集中される」。「創作止めば彼はふたたび土に起つ」。芸術によって楽しみながら農業をすることが日本の農民には欠けている。日本では、東北の農民には暗いイメージしかない。それは南欧の歌好きで、陽気、明るい農民の姿からはほど遠いものだ。「なべての悩みをたきぎと燃やし なべての心を心とせよ」。芸術は文化を促進するとともに、その文化の性質に対する判断を含んでいる。「表現法のいかなる主張も個性の限り可能である」。「しかもわれらは各各感じ 各別各異に生きている」。芸術作品を創造するのは、基本的には、個人であるが、その人が参与する文化の規範なくして、それはありえない。文化が一つの共同体から別の共同体へ移行する際の継続性は、芸術によって決定されることが少なくないのである。「おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであろう」。文化には、芸術作品に制作者の個性が認められるのと同様、集合的な個性がある。「そは人人の精神を交通せしめ その感情を社会化し遂に一切を究竟地にまで導かんとす」。だが、東北の農民という集合的な個性に彩られた芸術は、江戸時代にはともかく、近代に入ってからは、ない。芸術は孤立的なものではないから、孤立的な存在が産出することはできないのである。「個性の異なる幾億の天才も併び立つべく斯て地面も天となる」。文化と言えば、文化放送の『えのきどいちろう意気揚々』において、水谷加奈アナは、人間が光合成をする、と自身満々で発言していた。鼠は暗いところで生きているから光合成をしないとつけ加えていたように、彼女は、えのきどに光合成の仕組みを説明されるまで、本気でそれを信じていたが、こういう大愚から大賢が生まれてくるものである。

 東北の農民以上に虐げられていたアメリカの黒人たちはジャズという文化を生みだした。それは黒人の枠を超え、世界に広まり、ブルースやロックを始め、さまざまな新しい音楽を誘発したのだ。ジャズ自身の革命的意義は一九五〇年代を最後に薄らいだ。クイーンは『ジャズ』というアルバムを一九七八年に発表したが、それは音楽ジャンルではなく、字義通りの意味として命名したものだった。現代のポップ・ミュージックはこのジャズなしにはありえなかった。白人たちがジャズに耳を傾け、その精神に入っていったとき、彼らと黒人を隔てていた障壁が崩れ、全体としては、偏見が減ったのである。ジャズは、スポーツとならんで、黒人の政治的権利の平等の受容を用意したのだ。ユダヤ系ロシア移民の子で、正規の音楽教育をまったく受けていないジョージ・ガーシュインは、ジャズ・エイジ華やかな一九二四年、ちっともラプソディーでない『ラプソディー・イン・ブルー』(編曲ファーディー・グローフェ)を発表した。このシンフォニック・ジャズの名曲は黒人音楽と白人音楽、クラッシックとポピュラーの区別を、ある意味で、無化させる企てだったのだ。ジャズは、本来、こういうクレオールな音楽であり、それは二〇世紀の姿そのままである。言うまでもなく、白人と黒人の間の溝は、現在でも、完全には超えられることはないが、こうした試みは良識を持って生きる人々を前向きにさせてくれる。そして、このころ、ビリー・ホリデイは、白人のバンド、アーティ・ショウ楽団と巡業したとき、セントルイスのあるホテルで、黒人をひどく蔑視したそこのオーナーの白人老人に対して、「お前さんは掃除にだってニガーを使わないんだってね。賭けようか。このボール・ルームで私たちにやらせて、うけなかったら直ぐ放り出していいよ。どう、賭けなさいよ」、とたんかをきってみせたのだ。

 一方、東北の農民は文化を一つとして生み出すことはなかった。彼らはただ宮沢賢治を眺めていたか、さもなければ、都市の工場労働者になっただけだ。タレーランが、東北の農民の姿を目にしたら、「何ごとも学ばず、何ごとも忘れず」と嘆くことだろう。われわれも、こういう話を聞くと、かすかに記憶に残っている白木みのるをともなった『てなもんや三度笠』の藤田まことのように、「あたり前田のクラッカー!」と叫びたくなるところである。「強く正しく生活せよ 苦難を避けず直進せよ」。「世界に対する大なる祈願をまず起せ」。「そのとき恐らく人人はその生活を保証するだろう」。経済研究所が自分たちの主張する経済理論を自らの経営に適用しないことによって、最も経済的に潤うのだから、必ずしも、彼らを非難できないが、農民芸術がなかったので、誰も彼らに振り向かない。それどころか、コンドルが飛んでいく方向すらないのだ。「彼らが、自らを知り、協力と団結とが生み出すことのできるすばらしい諸結果を発見するとき、彼らは次のことを認識するだろう。すなわち、現在の社会制度が考えられるもっとも反社会的な、不得策な、かつ非合理的なものであるということ、その影響下では、人間性のすぐれた貴重な資質のすべてが幼時からおさえつけられるということ、そうしてもっとも不自然な手段は、もっとも有害な性向を生み出すのがつねであるということ、つまり未来は美点と幸福を生み出すのでもっとも魅力のある合成体であるもの(人間)を、不合理で、低能で、そして不幸なものとするために、極度の苦痛が用いられているのだということである」(ロバート・オーウェン『ラナーク州への報告』)。

 農民以上に世の中から見放され、差別され続けてきた存在、いわゆる知的障害者たちが『私たちにも言わせて』という本を発行している。これは賢治の理想の一つの具現である。こういう積極的な姿勢は農民にはない。仕事の休みの日曜日に編集会議を重ね、支援者や全日本手をつなぐ育成会の人たちもこの会議には参加していても、いわゆる障害者自身がさまざまな会合でのいわゆる障害者の発言や原稿の中から選んだ作品を、一九九二年に、一冊の本にまとめたのである。このシリーズは年一冊のペースで発行されている。

 一九九六年に出版されたその四冊目『私たちにも言わせて  2もっと 元気のでる本』には、次のような作品が生というものを問いかけてくる。

みなさま。

だい4さつめが できました。

しっかり よんでください。

そして せんでんを してください。

たくさんの ひとに よんでほしいのです。

(阿部 八重「はじめに」)

にゅうしょしせつは きげんが ない。

だから こわい。

知的しょうがい者と 言われたくない。

普通に みんなと同じ、平等に みられたい。

私のなかにも さべつは ある。

それにまけないで なんでも 思ったことは

言ったほうが いいと思う。

「施設をでて、暮らしたい時がきたら そうさせてあげる」

そう 約束しました。

おとうさん、おかあさんが、この約束を わすれたとしても

僕は、この約束を 一日だって わすれていません。

僕は、でるために 努力しています。

しゅうしょくに しっぱいして ロッカーに いれられた。

十三年間 おしぼり屋さんで はたらいてきた。

でも どんなに がんばっても

さいてい賃金から あがったことがない。

障害者は 給料が やすくてもいい

という かんがえかたは おかしい。

あたらしくはいった おばさんに しごとを おしえてい るのに。

いい人がいれば 結婚したい。

タイプは 車をもっていて

ちょっと わるめが 好きです。

けっこんについて ゆめも ふあんも ある。

でも「あんたは むりよ」って いわれると かなしくなる。

じぶんでも なやんでいるのに。

かってに きめつけないでよ。

親が年をとり、私はどのように 生きていったらいいか 考える。

友達や 地域の人と なかよくしていこうと思う。

先生に すごく反対されたけど、産みました。

子育ては 大変だけど、来年 保育園に いれようと思う。

 私達は、どこから来たのかなあ。どこでどうして私達が生まれたのだろうか。

 こうして生まれたことに、あなたは何を思う。くやしがる、あきらめる、それとも、何も思わない。本当にそれでいいの。

 ほら目をあけて、私達の心をきいてもらおうよ。訴えられない立場を。私達に負い目をかんじさせる世の中を。そしたら、そこに、かすかな光が 見えかくれしてるよ。

 私は、不思議に思う。たとえば、高校生のグレってあるよね。一番グレたいのは、私達かもしれないのに。だれ一人グレてる人はいない。私達が一番できた人間かも。一番生きる意味のある人間かも。

 だまされても、不安があっても、私達が私達であるかぎり、生きなければならない。

 こんなこと言ったら悲しいけど、次の世代の私達のために、がんばろう。何かをやり遂げて、何かを残してあげよう。

 希望のある次の世代へ 託そうではないか。

(石村 文子『私 達』)

涙の数だけ しあわせがくるって 本当かな

あたし 涙が でるけど

しあわせは まだきてないよ

涙の数だけ しあわせがきたら

どうしようか 迷うよな

(柳田 愛『涙の数だけ』)

 いわゆる知的障害者の「さいてい賃金」はあきれるほど安い。時給わずか五九四円というケースさえざらだ。『白痴』の作者である安吾は、小学校で知的障害者を教えた経験がある。その体験について、この逞しい知性は、『風と光と二十の私と』において、「本当に可愛いい子供は悪い子供の中にいる。子供はみんな可愛いいものだが、本当の美しい魂は悪い子供がもっているので、あたたかい思いや郷愁をもっている」のであり、その中の「一人の少女とやがて結婚してもいいと考え耽っていた」、と述懐している。かつてある知的障害者が、彼の兄の結婚式の最中、自分も結婚したいと泣き叫んだ光景を知っているわれわれは、何度試みても、彼らの本を直視することができない。と言うのも、この本を開くと、その引力があまりに強すぎて、われわれの涙を満潮にしてしまうからである。もしまだ手にしていないのなら、われわれはこの本を買わなければならないだろう。この本は書店では扱っていないので、手にいれたくなったら、「全日本手をつなぐ育成会(TEL03─3431─0668)」に連絡することだ。ほかにも魅力的な本が発行されている。はるかに売れていながらも、今の世の中には、あまりに引力の弱い本が多すぎる。

 われわれは、その上で、この「一番できた人間」や「一番生きる意味のある人間」、すなわち「善悪の彼岸」にともに生きてくれることを願いたくなるのだ。同じ人ばかりではつまらない。外国人だっていなけりゃいけない。あんまり「聡明」な人や「愚鈍」な人、「凡庸」な人ばっかりいるのも、健常者だけいるのも、おもしろくないものだ。これは事実である。自治は福祉を無視したラッサールが批判した「夜警国家」への回帰を意味しない。福祉の基本はたんなる慈善ではなく、生成の多様化が目的である。他人の立場に立つことはできない。自分の立場を徹底的に掘り崩すことだけができる。それが福祉だ。差別は「堕落」(安吾)の不足によって生ずる。スタンダールは「女はそれ自体として男よりも劣ってもいず、優れてもいない」と言ったが、われわれも障害者に対してそう思う。われわれは、その姿を見ても、自分より低いレベルだとは感じない。

 日本人の排他性と品格の欠如、短絡性のために、こうした存在がいまだに風景に馴染んでいない。望んでそうなったわけではないので、ほんとうに楽しんで生きようとしている健康的な精神の持ち主だ。あの人たちはわれわれのことをすべて気づいている。ただ傷つけまいとする思いやりから、黙っていることが多いのだ。「失敗」したり、危なつかしかったりしても、みんなで楽しく言いあう。負い目も憐れみもない。ソフィストケートなど無縁だ。プロメテウスが、ゲーテの『プロメテウス』によると、ゼウスに向かって、「私の姿に似せて 私はここで人間を作る 私のように悩み、泣き 享受し、よろこび 私と同じくあなたを顧みぬ 人間を作っているのだ」と言っているように、あの人たちはプロメテウスさながらだ。これこそ人生だとわれわれは思うのである。こんな人生だったら、おもしろいから、何度繰り返して生きてもいい。紋切節も必要だ。あの人たちに対する差別は日常生活全般で−−職業と結婚、犯罪、災害、それ以上に性をめぐって−−行われている。差別はつねに、最終的には、性の問題へと帰着する。性に対する抑圧こそが差別と呼ばれるものである。あの人たちの語りは淡々としている。しかし、そこに優しさと凄味が含まれているのだ。それは「善悪の彼岸」から発せられている。差別のために、味わいたくもないものを味わい尽くさせられた人間だからこそ、絶望が腹の奥底にまでしみわたっている人間だからこそ、誰にも有無を言わせない希望を語り得るのである。われわれはいつも先のような文章によって慰められ、励まされている。こころが膠着してしまったとき、それらを読むと、柔軟さが蘇ってくるのだ。「生きていても何の役にもたたないから、せめて餌になって魚のためになろう」と隔離された島の崖から入水自殺をしたあるハンセン病患者の話を、われわれは聞いたことがある。われわれはこんな思いを人にさせてはならない。差別は、いわゆる差別語を使っているか否かによって、決定されるべきものではないのだ。「現実における言葉の使用、それがその言葉の意味なのである」(ルードヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン『青色本』)。言葉の用法を考慮して、差別かどうかを判断しなければならない。「ある言語を理解しているということは、ある技術をマスターしているということなのである」(ヴィトゲンシュタイン『哲学探求』)。差別されている人たちに必要なのは文化的尊厳と経済的自立、具体的な生活の手引きである。いわゆる知的障害者は知性ある存在である。「知性はいわば人間への省察であるが、かかる省察のあるところ、思いやり、いたわりも大きくまた深くなるかもしれぬが、同時に衝突の深度が人間性の底において行われ、ぬきさしならぬものとなる」。「私は逆説を弄しているわけではない。人生の不幸、悲しみ、苦しみというものは厭悪。厭離すべきものときめこんで疑ることも知らぬ魂の方が不可解だ。悲しみ、苦しみは人生の花だ。悲しみ苦しみを逆に花さかせ、楽しむことの発見、これをあるいは近代の発見と称してもよろしいかもしれぬ」(安吾『悪妻論』)。

賢治が農村で試みたかったのはバングラデシュのグラミン銀行だったと考えるべきだろう。渡辺龍也の『「南」からの国際協力─バングラデシュ・グラミン銀行の挑戦』によると、「グラミン銀行(http://www.grameen-info.org)」は、貧しい人たちだけに融資する銀行として、一九八三年にバングラデシュで発足している。ベンガル語で「農村」を意味する「グラミン」が示す通り、発足以来、女性を中心に無担保で少額融資を行い、貧しい農村が貧困から抜け出せるよう支援している。現在、バングラデシュ国内の三万以上の農村で活動され、利用者の九割以上を女性が占めている。貧困層に小規模融資を提供する「マイクロクレジット」の先駆けとして注目を集め、開発援助協力の新たな方法として同様のプロジェクトが途上国、先進国を含む世界五十ヶ国以上で実践され、実績と積み重ねている。グラミン銀行の成果を参考に、一九九七年、アメリカで一三七ヶ国が集う「マイクロクレジット・サミット」が開催され、その後、アジア、アフリカ、中南米の途上国だけでなく、先進諸国でもマイクロクレジットによる貧困の撲滅、雇用の創出などの試みが広がっている。グラミン銀行の方針は、途上国の生産者を先進国の消費者が対等な立場で支援するフェアトレードを先駆けている。また、グラミン銀行は、九〇年代初頭から、預金や貸し付けに加えて、グラミン・ウッドグなどの織物生産や農業、漁業といった事業も始め、さらに携帯電話やインターネットなどを利用した通信サービス、医療・保健サービスも開始している。

グラミン銀行はムハマド・ユヌスが創設した。彼は、一九六〇年代にアメリカで経済学を学び、バングラデシュ独立後に帰国し、チッタゴン大学で教鞭をとっていたが、一九七四年の大飢饉をきっかけに、貧困層の救済活動に携わるようになったが、思うようにはかどらなかった。銀行は、返済能力が期待できないという理由から、土地を持たない貧困層に融資しなかった。また、男性優位の伝統社会であったため、融資の対象は富裕層の男性に限られていた。一九七六年、ユヌスは自ら保証人となって銀行から融資を受け、貧しい人々に融資するプロジェクトを考案する。これがスタートすると、融資を受けた人々は、少額の資金により、家畜の飼育や農作物の栽培、工芸品作りなどで安定した収入を確保し、返済率は九割以上に達した。グラミン銀行は、融資を受けた女性が事業で収入を得ることによって、家庭や地域の生活改善に大きな成果が見られ、また男性の借り手に比べて事業に継続性があり、返済も確実だと立証された点を考慮し、積極的に女性を勧誘するようになった。

融資を受けるには、まず、五人でグループを作って銀行のメンバーに加入する。研修を通して、自分の名前のサインの仕方や生活改善や起業に関する知識を得た後、融資を受けられる。五人の中で、資金を最も必要とする二人が優先的に融資を受け、翌週から毎週定期的に集会を開き、行員に返済していく。残りの三人も、順次、貸し付けられる。

グラミン銀行は慈善事業ではない。サービスを有料で提供し、ビジネスとして成り立たせることで、受益者の自立を図っている。グラミン銀行の加入者は、近隣地域の貧困層と比較すると、収入も財産も上回っており、摂取カロリーの調査によれば、半数以上が貧困から脱出している。また、グラミン銀行の活動は、女性の地位向上と自立の支援にも寄与している。参加している女性の多くが、経済的な自立を通じ、家庭や地域で自信と尊厳を獲得したと実感している。さらに、メンバーの連携が男性社会で弱い立場におかれている女性を精神的・経済的にサポートしている。賢治はグラミン銀行を知っていたら、早速、この方法を導入しただろう。

 賢治は、芸術を通じて、農民を、オーギュスト・コントがプロレタリアートをそうすることを課題と指摘したように、社会組織の中に統合しなければならないと考えたのである。十九世紀後半のスペイン農民のアナーキスト的運動には土着の千年王国的運動の伝統があったように、賢治のアナーキスト的運動には千年王国的要素が見られる。アジア的生産様式に属する日本の支配権力は官僚機構・管理組織を構築し、土木工事をやたらと計画し、剰余労働を規制してきた。そこには不明瞭な経理がつきものだ。賢治の『農民芸術概論』は農業を産業と把え、その中で芸術を楽しむことを勧めた手引きである。賢治は農村の荒廃が不可避的だと考えている。しかし、それは都市の正当性を意味しない。彼の言う「本当の百姓」は農村でも都市の住人でもなく、個人である。賢治は政府や官庁、都市を糾弾して、農村の法的・経済的な権限拡張を要求しない。彼は、花巻の農民を集めて、芸術活動を実践したのである。賢治は、政治的には遠回りかもしれないけれど、農民に文化的誇りを持たせようとしたのである。「文化は動きであって、状態ではない。航海であって港ではない」(トインビー)。賢治が生まれ育った地域では、一九七五年ごろまで小学校の給食費の支払いに現金だけでなく、米を用いてもよいことになっていた。ある時期、日本では米が貨幣と同じように使われていた。一部の日本人に米が特権的に扱われるのは、それがトーテミズムの対象だからだ。米は一商品でありながら、各商品と関係する貨幣であり、そして食料である。貨幣を食べることはその共同体の内面化であり、トーテミズムの行為だ。農村はこのトーテミズムに訴えて、プライドもなく、農業の保護政策を要求する。米は聖域=タブーだというわけだ。こうした論法は、外国人にとどまらず、もはや都市の住人にも通じない。プライドのない農村に、法的・経済的権限を与えられたところで、政府に依存してしまうだけだ。農村にアントニオ・グラムシのヘゲモニー論を導入する必要がある。今日の農村は、まったく自立できず、補助金づけの状態を都市部から非難されている。対立は最終的に吸収へと帰着する。われわれは対立ではなく、すべてを「併存」させ、その相互作用の働きを利用する必要がある。「苦痛」を忌避することによって、対立が生ずるならば、「詩人」は、むしろ、それを「享楽」することを選ぶ。これは賢治の理想である。理想を非難することは短絡的だ。理想を持つゆとりを許さないのは反文化的である。賞賛えべき理想と実現すべき理想とを混同してはならない。「労働者階級は、コンミューンから奇蹟を期待しはしなかった。彼らは人民の命令によってはじめられるべき、何らできあいのユートピアをももたない。(略)彼らは崩壊しつつある旧いブルジョア社会そのものがはらみつつある新社会の諸要素を解放すること以外には、実現すべき何らの理想を持たない」(マルクス『フランスの内乱』)。われわれは過去に対しては賞賛すべき理想を探し、未来には実現すべき理想に向かう。「われらの前途は輝きながら嶮峻である」。「嶮峻のその度ごとに四次芸術は巨大と深さとを加える」。

 中央で計画し、組織する指導者である日本の官僚や財界人、政治家は、ミハエル・ヴォスレンスキーが『ノメンクラトゥーラ・ソ連の支配階級』において批判したことで知られるようになった新しい階級、すなわち「ノメンクラトゥーラ」以上に、世襲・搾取・腐敗を繰り返している。「ノメンクラトゥーラは本質的に膨脹主義的、かつ侵略的階級である」。「新しい階級」という概念は、一九一年、カウツキーがソビエト政権を批判する際に使っていたが、一九五七年、旧ユーゴスラビアの元副大統領ミロヴァン・ディラスが、『新しい階級・共産主義体制の一分析』において、マルクス主義への内部告発のキー・ワードになった。ヴォスレンスキーによると、ノメンクラトゥーラは、本来、「名簿」を意味する言葉であり、その任用を部局の長ではなく、上層部が行う指導的なポストの表、およびこれらのポストを占めているか、またはその候補者になり得る人々の表を指す。直接的な権力者だけでなく、それぞれの分野で間接的に権力を助けている協力者も含まれ、この集団はさまざまな階層にわかれている。ノメンクラトゥーラは必ずしも世襲されるものではないが、世襲的である。

 しかも、東西冷戦構造の崩壊後、旧体制の支配層が体制の変動と共に没落するどころか、ノメンクラトゥーラが市場経済化の主たる受益者となり、むしろ、その促進者となるという現象が起きる。これは「政治的資本主義」、より率直には「ノメンクラトゥーラ資本主義」と呼ばれている。

ノメンクラトゥーラは、もともとは、管理者にすぎないが、民営化の際、所有権を取得し、所有者になったのである。彼らは正規の民営化が始まる前に、共産党による特許、法の抜け道、人的ネットワークなどを使って、最も収益性の高い経済部門を手にしている。さらに、正式の民営化においても競売やクーポンによる外部者の株式取得だけではなく、従業員の取得も認めさせ、所有権は企業の事情に通じている管理職者、すなわちノメンクラトゥーラの手に渡るように仕組んでいる。一九九九年の経営者層に占めるノメンクラトゥーラの出身率はポーランド五六・九%、ハンガリー六六・五%、ロシアでは国有企業八四・〇%、ならびに私有企業五二・八%、そのうち、私企業経営者のトップ・ノメンクラトゥーラ出身率はハンガリー二九・六%、ポーランド二八・四%、ロシア一八・七%となっている。ノメンクラトゥーラ出身の経営者は政府に対して補助金を求めることが多く、体質は旧体制からさほど変化していない。

 こうした階級の出現を予測していたマルクス主義者は、ロシア革命当時、すでにいた。トロツキーは、『われわれの政治的課題』において、「レーニンの方式では、党が労働者階級のかわりになってしまう。党の機関が党のかわりになってしまう。中央委員会が党機関にかわってしまう。そしてしまいには、独裁者が中央委員会にとってかわってしまう」と述べているし、ローザ・ルクセンブルクも、『ロシア社会民主党の組織問題』で、「レーニン流の党組織によると、一握りの強力な中央委員が末端組織の生殺与奪権を握ることになり、その結果は大衆の自発性を圧殺し、党を大衆から遊離して、必然的に党の官僚化をもたらす」と言っている。これはレーニンの目的意識性を重視した組織論に対する批判よりも、日本のノメンクラトゥーラにこそあてはまる。Jリーグの監督の経験を持つズデンコ・ベルデニックは「日本は社会主義国です。私も旧ユーゴという社会主義国で育ち、サッカーをしてきたため、日本人の考え方がよくわかります。個人より集団を強調するのが社会主義国の特徴です。規律はよく守るが、責任をもってシュートを打つ、責任をもってシュートをはずすということはしないのです」と言っている。ほかに、「ソビエトとは、国営資本主義国家にすぎない」と批判したヴィルヘルム・ライヒもソビエトの「官僚化」を予測していた。ルクセンブルクは、自然成長性を意識的にコントロールされるべきブルジョア的・アナーキーなものとして批判したレーニンに対して、目的意識性はそれとの弁証法的な対話により自己修正していくものとして評価していた。彼女の理論は、トロツキー同様、レーニンから批判され、スターリンにより異端とされた。レーニン主義は『心霊修行』のイグナティウス・デ・ロヨラのイエズス会の信条に似ている。軍人だったロヨラが始めた革新的トマス主義のイエズス会の唱えたファナティシズム、すなわち法王無謬説を官僚は当然の主張と支持するだろう。官僚の国会答弁を聞いたら、その見事な質問−反論−解答の体系的形式に提唱者の聖トマス・アクィナスは涙を流して喜ぶに違いない。地元グルジアのゴリを極端に優遇したスターリンもイエズス会系の神学校に通っていた。このチフリスの神学校でも、反体制運動が盛んで、校長が暗殺されたことすらあった。スターリンはキリスト教に対してはすでに懐疑的であり、「私がマルクス主義者になったのは、私の社会的な身分のためである。私の父は靴工場の労働者であったし、母も労働者だった。しかし私を決定的にこの路線へと駆りたてた要因は、何と言っても、神学校において容赦なく私に課せられたイエズス会の規律と過酷な不寛容の精神である。私が学んだ神学校の雰囲気は、ツァーの専制的抑圧に対する憎悪で爆発寸前であった」と後に述懐している。スターリンはイエズス会に対するアンチテーゼとしてマルクス主義運動に参加したのだが、彼が最もその形態をアイロニカルに体現したのである。レーニンのマルクス主義をロシアの現状に対応させようとする企てが、正教会というロシアの支配的な思想に近づくのは、必然的である。イエズス会にしろ、レーニン主義にしろ、為政者は弾圧したのに、それを近代日本の権力は完全にとりいれた。レーニン主義は決してレーニンの著作に見られる理論だけではなく、彼の革命をめぐる行動やパンフレット、アジ演説も含めて形成されるものだ。けれども、レーニンがほかのマルクス主義者に対してすぐれているのは、党を組織して権力を保持・強化し内線状態を終結させた点にある。その後の手を彼はうてなかった。レーニン自身は官僚主義を望んでいなかったが、結果として、彼のアポリアをスターリンがあの方法で処理することになってしまった。官僚の喜ぶ状態をレーニンは提供したのである。独裁者が一人で国を動かすことはできず、操作できる装置、マックス・ヴェーバーの言う「生きた機械」が不可欠なのだ。石橋湛山が、『百年戦争の予想』の中で、ファシズムやナチズム、スターリニズムを官僚主義と批判したことは、この意味で、正しい。日露戦争のロシアの敗北を喜んでいたのは日本人だけではなかった。ハンガリーの言語学者アルミニウス・ヴァンベリはオーストリアやロシアに抵抗するハンガリーのナショナリズムから日露戦争の際、日本を応援していたし、レーニンもそうだった。そして、日本は、歴史上、レーニン主義が最も生きられた国家である。

 ロシア革命は、グラムシの言う通り、「資本論に反する革命」であったが、『歴史哲学』や『法哲学』に即した革命、ヘーゲルの革命だった。ロシア革命はプロレタリア革命ではなく、「東洋的専制主義」(カール・ウィットフォーゲル)の農業国を工業化する国家資本主義革命、ヘーゲル主義革命である。ロシアは、革命を通して、封建制を理念的に乗り越え、産業社会へと移行した。産業化社会への移行の遅れが大きければ大きいほど、それをとり戻すために理念を掲げて革命にうってでなければならない。「哲学はつねに登場するのが遅すぎる」(ヘーゲル)。ロシア革命はフランス革命の、スターリン主義はジャコバン主義のヴァリエーションである。ヘーゲルが熱狂したフランス革命は、たんなるブルジョア革命ではなく、「複合革命」(G・ルフェーヴル『一七八九年−フランス革命序論』)である。未発達なブルジョアジーの代わりに、支配者階級の一部、農民、都市民衆による革命は、当初、立憲君主制を制定しようとしたが、目まぐるしい政治情勢の変化の中、共和政の成立へと展開していく。ヘーゲルも、初めは、ジャコバン派を支持していたが、次第に否定的になっていった。彼は、『精神現象学』の中で、ジャコバン主義者の恐怖政治を自由が倫理的関係や制度的拝啓から切り離され、抽象的・絶対的なものと考えられた結果、生じたと説明している。フランス革命の理念は「世界精神」ナポレオンがほかの国へと導き入れてくれなければならない。ヘーゲルによれば、自由の精神の発展は東洋世界から、古代ギリシア・ローマ世界を飛び越えて、一気にゲルマン世界へと到達し、その中でもプロイセン的な立憲君主制へと至る。ジェルジ・ルカーチの『若きヘーゲル』によると、こうしたヘーゲルの思想形成過程の中でジェイムス・スチュアートの『経済学原理』が重要な役割を果たしている。『経済学原理』は『諸国民の富』の約十年前に出版され、産業資本の登場を前にした商業資本の立場から掛かれている。スチュアートは大陸に亡命しており、産業資本主義に移行していたイギリスではなく、前段階にあるヨーロッパ大陸の事態を考察している。『経済学原理』の翻訳者の中野正は、序文で、「スチュアートの学説は、この遅れた基盤にたちつつ、イギリスの発展してゆく資本主義の成果を導入して、世界市場の競争に伍してゆこうとする、ヨーロッパの啓蒙された君主への政策的助言ともいうべき様相を担っている」と解説している。ヘーゲルはイギリスの市民社会的な資本主義を、スチュアートを援用してスミスを批判することにより、理論的に克服し、ある意味で、プロシア国家を正当化した。個人崇拝も「世界精神」の名の下に正当化される。ヘーゲルの死後、イギリスをも凌駕しつつあったビスマルクの国家資本主義がフランスに勝利し、フランスも国家資本主義を強めていく。日本も近代化の際、ビスマルク主義を採用したし、旧共産圏は「鉄血政策」の国家だった。ブルジョア革命は、アングロ・サクソン的経験論の思考、すなわち規則の体系の中でのみ、国家と政府の分離の体制でのみ、可能であるが、法則の体系である大陸の思考に基づいた国家資本主義は国家と政府を同一化し、国家による介入と統制によって資本的生産を発達させ、しかも、産業資本主義の弊害を救済する社会保障政策を含んでいる。ラッサールの社会民主主義はそうした国家の介入による資本主義の段階的克服である。

 官僚主義を批判するには、その手の内を知りつくしているから、マルクス主義によらなければならない。そもそもマルクスの『資本論』も未完のプロジェクトであり、エピソードなのだ。『資本論』のエンゲルスが編集した部分は、啓蒙主義者の業績のように、膨大な量の草稿群の累積がある。それは、『失われた時を求めて』であり、能動的に読まれて、初めて、意味を生産する。Lo que abunda no daa.マルクスとエンゲルスの言説は区別しなければならないが、マルクスの作品を読む際に、エンゲルスを斥けるべきではない。エンゲルスなしに、われわれはマルクスの作品を読むことができないからだ。ヘーゲルもそうだが、エンゲルスを排除して、純粋なマルクスの言説を構成することは背理である。エンゲルスの構築した壮大なマルクス主義の体系への批判として、ヘーゲル批判とあわせつつ、マルクスを読む。エンゲルスを非難することは不当だ。史的唯物論・弁証法的唯物論を構築したのはエンゲルスであり、エンゲルスの哲学はマルクス主義の別名である。割りきった概念による単純明快な方法論は、どこか大雑把でありながら、一般的に思われているほど、素朴ではなく、時代そのものだ。あのいいかげんさがその真骨頂であり、柔軟に読んでこそ、エンゲルスの哲学は意味がある。断片的なマルクスと体系的なエンゲルスは二人でワンセットなのだ。それは弁証法的関係にある。エンゲルスの一生のほうがはるかにマルクス主義的だった。別に編集者に義理立てして新たな仕事を手にしたいからというわけでもないけれど、現代の文化は編集によって成り立っていることを考えれば、エンゲルスがマルクスの作品の編集にかかわったことは意義深い。彼が編集したのは『資本論』ではなく、時代だった。エンゲルスはネタよりノリの哲学者だった。L・S・ペンローズの階段のようなヘーゲルの弁証法は彼の作品の内部で機能しているけれども、マルクスの弁証法はこういうところに最も働いている。『資本論』は、実は、「資本現象学」とタイトルを補って読まなければならない。

 マルクスは、『資本論』において、現象という概念を次のように使っている。

本質的関係−−これが現象する−−たる労働力の価値や価格を区別される、労働の価値や価格あるいは労賃という現象形態については、すべての現象形態とそのかくれた背景についていえるのと同じことがいえる。現象形態は、ありふれた思惟形態として直接的・自然発生的にあらわれるが、そのかくれた背景は科学によって発見されなければならない。古典経済学は真の事態にほとんどふれているが、意識的にそれを定式化しなかった。それはブルジョア的外皮をまとっているかぎり、そうできないからである。

 『資本論』は経済のメカニズムを明らかにするだけではなく、そのメカニズムを生み出す経済の現象として、「資本」というエピソードとして把える。経済は内部で自己完結するシステムではない。賢治も接近しているように、マルクス主義は、日本においては、依然として生きた最も有効な思想である。「愛するともびとらよ、このわれわれの時代より もっとすばらしい時代があった−−これは議論の余地がない! そしてもっと高貴な民族がかつて生きていたのだ」(フリードリヒ・シラー)。

 ノメンクラトゥーラは原始蓄積の段階における国内の経済成長を背景にしているときには、自信に満ちあふれていた。日本的生産様式の優位という神話が崩壊してからは、その膨脹主義的本音が露出したのである。ジル・マルチネは、『五つの共産主義』において、閥族主義な新しい階級は個人ではなく、「連帯搾取」を行い、経済の成長率の低下がこの階級の巣くう体制の危機となることを指摘している。旧ルーマニア共産党や旧アルバニア共産党を腐敗させたことで知られるネポティズムは、一党独裁、または一党独裁的な政治体制では、不可避的である。派閥政治が横行するところでは、一つの強大な党の実質的な支配が確立していることになる。ホセ・ベルガミンが「真の連帯性は孤独な人間の間にしか存在しない」と話したけれども、かの連中の場合は、偽の連帯である。経済の不調は外に軍事力を進出させる口実となるのだ。生産手段をほとんど持たない官僚や政治家、一部の財界人といったノメンクラトゥーラは税金を共有財産であると考え、共有権・管理権を既得権益として、国民から搾取を続けている。英雄的感性に乏しく、怠惰な民衆に任せていては福祉は栄えることはないというわけだ。組織された人間生活こそが望ましい姿だと彼らは、本気で、信じている。ニキータ・セルゲヴィッチ・フルシチョフは「十人に対して二着しかズボンがないのに、共産主義を宣言するとしてみよう。ズボンを均等に分けると、誰もはいていないことになる。このような共産主義にはうなずけない」と言ったが、日本のノメンクラトゥーラはこの「うなずけない」状態を当然と信じこんでいるのだ。ノメンクラトゥーラの権力欲はハイアラーキーを登っていくことと共有財産を増やすことの二つに要約される。

 そのフルシチョフは農業政策の失敗によって失脚したわけだが、ラインハルト・ヴァーグナーは、『DDR−ジョーク』において、一九八〇年頃、東ドイツの民衆の間で話されていた次のようなジョークを紹介している。

質問 社会主義にとっての四つの敵とは何か?

解答 春、夏、秋、冬。

 官僚主義の強い社会では、外部効果が大きくなる。経済学において、「外部(external)」は市場を通さない領域あるいは部分を指す。外部経済は市場を通過さないで経済的な利益を得ることであり、外部不経済は市場を通さないで経済的損失をつくりだすことである。市場を通過させないということは代金を支払わないということだ。つまり、前者は、代金を支払わないで、経済的利益を獲得することであり、後者は、損害を与えているのに、代金を支払わないということを意味する。外部経済の代表的な例は蜂が御津を集められる環境を求めて移動する養蜂家、外部不経済の典型は公害や環境汚染である。官僚主義は外部不経済を必須の条件にしている。汚染者負担の原則のように、外部を内部化すれば、外部不経済は軽減されることは確かであるとしても、外部は市場の完全性を阻む。

 これだけでも、ノメンクラトゥーラはヤクザ的であるが、さらに、共同財産を保護するために、流通経路を複雑にするという点でも、それは強調される。非合法組織は、麻薬の売買において、流通経路を複雑にし、利鞘を稼ぎ、自分たちへの警察の摘発・逮捕を困難にする。ノメンクラトゥーラはダイダロスの制作したミノタウロスを閉じこめた迷宮以上の複雑な構造の迷宮をつくってしまう。閉鎖性は流通経路の複雑化により可能になる。ノメンクラトゥーラの支配する日本では、文学も含まれるが、ジョン・ザイマンが、『縛られたプロメテウス』で、提起した「PLACE」−−「所有的(proprietary )」・「局地的(local )」・「権威主義的(authoritarian )」・「請負的(commissioned)」・「専門家的(expert)」−−がエートスになっている。ノメンクラトゥーラの言動はすべてこの価値観にしたがっていると考えるならば、非常にわかりやすい。ロバート・マートンが、『科学、技術、および社会』において、願った「CUDOS」−−「公有性(communality )」・「普遍性(universality)」・「無私性(disinterestedness )」・「組織化された懐疑主義(organized skepticism)」−−がエートスとなることなどない。マートンはあまりに素朴で、純粋すぎる。

 それに、科学研究には金がいる。チョーサーの文献学研究とは比較にならないほど莫大な金が必要なのだ。高額であればあるほど、科学研究に注がれる金は、ドブに捨てることにならないようにするため、スポンサーのメリット=デメリットによって判断されなければならない。これにはたんなる利益だけではなく、環境ホルモンやダイオキシン問題、地球温暖化といった外部不経済の解決も含まれる。やりたいようにさせておいたほうが好結果を生み出すとスポンサーから見なされたときだけ、研究者は自由に振る舞える。研究者たちは研究費を求めて、自分のやっていることがいかに有用なのかをスポンサーに説得してまわらなければならない。シュンペーターが発明について言っているのと同様に、科学研究も技術革新を促すものでなければ無意味なのだ。スポンサーは財界の場合もあれば、政府の場合もあるだろう。従って、科学研究は国内外の政治的・経済的情勢によって左右される。

 古代ローマの諺に「酒中真理あり」というものがあるが、飲めない人にまで酒を強要する日本人、特にノメンクラトゥーラの間においてこれはまさにその通りだ。日本ではアルコールは酔うためではなく、他人への親しみのこもった説得を可能にする霊的交流の力を授かるためという理由で、使用されている。それは、薄暗い照明の下、しばしば華やかな衣装で着飾った巫女らしき女性が同席しているし、いささか調子のはずれた言賛美歌を歌っていることからも強調されよう。さらに、ゴルフは、信仰をお互いに確認しあって仕事のつきあいの幅を広げるために、行くことが重要で、プレーの内容は二の次である巡礼なのだと理解されているらしいのだ。これらは、日本では、「接待」と呼ばれている。これがなくなれば、日本の物価は、確実に、下がる。こういうノメンクラトゥーラの組織主義という信仰を捨てなければ、これをわからないだろう。”No one in the world is so unintelligent as a single Japanese, and no one so bright as two"(John Gunther “Inside Asia").われわれの場合、誘われて酒を飲みにいくと、親睦どころか、人間関係が壊れてしまい、二度と及びがかからないのだから、日本人の信仰は理解できない。

Candy

Is dandy

But liquor

Is quicker.

(Ogden Nash Reflections on Ice-Breaking")

 改革や革命を実行するには、リーダーシップ以上に、強固な連帯感を共有していること、何にも増して、相手が弱いことが条件である。強いものを倒すのは至難の業だ。腐りきっているからこそ、改革や革命の対象になるのであり、それが義憤にかられたものたちの連帯感を誘う。その行動はきっかけではなく、相手の勢力にとって、とどめとして機能してこそ、有意義なのである。

Money, get away

Get a good job with more pay and your O.K.

Money, it’s a gas

Grab that cash with both hands and make a stash

New car, caviar, four star daydream,

Think I’ll buy me a football team

Money, get back

I’m all right Jack keep your hands of my stack

Money, it’s a hit

Don’t give me that do goody good bullshit

I’m in the hi-fidelity first class traveling set

And I think I need a Lear jet

Money, it’s a crime

Share it fairly

But don’t take a slice of my pie

Money, so they say,

Is the root of all evil today

But if you ask for a rise

It’s no surprise that they’re giving none away

Pink Floyd “Money"

 農村は都市を維持する安い労働力の提供場所であって、都市は農村の延長であった。しかし、安価な労働者たちはこれ以上逃げ場のない都市にきて、工場労働者やサラリーマンとなり、社会組織の中への統合を目指したプロレタリア芸術に目覚めたが、農民にはそんな認識などなかったのである。実際には、労働者以上に、大衆がプロレタリア文学を読んでいた。大衆の中核はサラリーマンである。フェルディナント・ラッサールが、『工業書簡』において、把握した工業主義は生きた労働が死せる資本によって支配されている状態だったが、プロレタリアートは別に勤労民衆とは限らない。処世術にたけたものも少なくないのだ。サラリーマンは、古典的な「プロレタリアート」とは違い、権力者に向かって立ち上がることはない。ハンス・ファラダが『おっさん、どうする?』によって諷刺したあの中間層はプロレタリア文学の二項対立にそぐわないがゆえに、読者としてはふさわしかった。今日のサラリーマンの好む本は週刊誌、中国や日本の戦国武将に関する「歴史小説」、新たな経済や科学技術、健康をめぐる「ビジネス書」である。彼らは依然として、労使対立の図式が消えても、なお中立的なのだ。欧米との同時代性を獲得した大正時代、新しい都市の住民である大衆が登場した。大正は、「ローカル」でありながら、「ユニヴァーザル」と思いこむような倒錯性において、今日に似ている。正確に言うならば、一九二〇年代の状況は、三〇年周期で、繰り返される。

 オルテガ・イ・ガゼットは、『大衆の反逆』の註において、一世代の活動期間は三〇年だと次のように述べている。

 一世代の活動期間は約三十年である。しかしこの活動は二期に分かれ次のような二つの形をとる。つまり、その三十年の初めの約半分に相当する期間には、活動を開始した新世代は、自分たちの思想や好みや趣味の宣伝をし、それらが後半にいたって実効を持ち支配的な力を発揮するようになる。ところがその時には、この世代の支配下に教育された新しい世代が違った思想や好みや趣味を持つようになり、それを社会に注入し始める。

 三〇年という年月は、人間にとって、一つの区切りになる。親と子の年齢差はほぼ三〇年である。後藤久美子と聞いて、『ティアードロップ』の二代目ゴクミではなく、中尾ミエの前に『かわいいベビー』を歌っていた幼女と思い出せるとしたら、かなりの通か三〇歳以上の人である。農民は、農村にはできないが、移動する。農業も移り行く。都市の真ん中で、ビルの屋内でさえも、農業に励むことだってできるのだ。「われらは新たな美を創る 美学は絶えず移動する」。賢治の『農民芸術概論』は「移動する」テーゼであるがゆえに、問題なのである。問題は解決されることはない。問題はわれわれの意識を決定するのだ。意識とは、社会的な意味においては、問題意識である。そして、意識していないときにこそ、この問題に最もとらわれているのである。

 賢治は農業問題に関して必ずしも具体的ではなかったけれども、その姿勢は『景気循環論』の序文におけるヨーゼフ・シュンペーターの次のような考えに通じるものである。

 私は何の政策も勧告しないし、何の計画も提案しない。政策の勧告や計画の提案以外のことを問題にしない読者は、本書を放棄すべきである。しかし私は、このことが、私が学問の社会的義務に無関心であることを証明したり、本書を−−その歴史的部分を含めて−−今日盛んに論ぜられている問題と関係ないものにしたりするとは認めない。今日もっとも必要であり、もっとも欠けているものは、人々が熱烈に統御しようと決意しているあの過程を理解することである。この理解を提供することは、あの決意に用具を与えることであり、それを合理化することである。このことが、学問的研究者が、学問的な研究者として、果たす資格のある唯一の仕事である。

 アロイス・シュンペーターは、一九三〇年代の大不況期にあっても、この態度をとり続けたため、弟子の多くはケインズ派にまわってしまった。一九三三年には、四人に一人が失業していた合衆国において、フランツ・ヨーゼフ一世支配下のウィーンからやってきた経済学者の姿勢が一般に理解される可能性はほとんどなかった。その年に亡くなった賢治にしても農村の生活を、実際には、あまり知らなかった。しかし、その知識不足は決して問題ではない。「地方文化の確立が叫ばれるのも地方に特に文化が必要というのではなく、全日本に文化が必要であり、全日本おしなべて高度の文化という意味に於て、地方地方に真実のそして高度の文化の必要が叫ばれているのであるが、然らば文化とは何ぞや、と云えば、私は文化に就て答えるよりも、その母胎たるべきもの、自主の自覚、及び、自我の誠実なる内省を以て答えたい。之なくしては真実の文化は育たず、又、生れない」(安吾『地方文化の確立について』)。

 「イギリス海岸」のある北上川は、かつて、船による交通の場だった。賢治の先祖のような川沿いの商人は、この交易によって、利益をあげていた。文明は水と塩が欠かせない。鉄道が開通してからも、戦後になるまでは、沿線よりも、川沿いの宿場町が栄えていた。今でも、北上盆地の各都市では、繁華街は路線バスの通行地域周辺にあり、駅前は閑散としているため、駅前再開発事業が行われている最中である。樺山紘一は、岩本由輝・米山俊直との共著『対話「東北」論』の中で、東京に対する東北を考え際、イングランドとスコットランドの位置を示唆的に提示している。イギリスと言えば、『ジェラルドの汚れなき世界』で知られるジェスロ・タルはイギリスの農学者の名前をグループ名につけている。ユダヤ人とならんで、スコットランド人は経済学の分野で、輝かしい業績をあげているが、賢治は、その意味で、スコットランド的な姿勢を持っていた。人種主義的発言は危険なことであるから、われわれは注意しなければならない。人種に関して言及する際は、一つのユーモアとして語る必要がある。

A Japanese businessman went to the eye doctor for an examination.

“You have a cataract,” said the doctor.

“No,” said the Japanese gentleman. “I have a Rincoln.”

(鈴木進=岩田道子=LG・パーキンズ『アメリカン・ユーモア』)

 賢治の農業政策の基盤は重農主義であるが、それは、アダム・スミスがソクラテス=プラトンだとすれば、経済学におけるプレ・ソクラテスである。今日、重農主義を見直す必要がある。重農主義は、バロック的ペシミズムと啓蒙主義的オプティミズムの間で、閉塞状況となっている時代の経済思想だった。啓蒙主義は今の専門家による知識の普及ではなく、ディドロやダランベール、ヴォルテールらのように、「遊びながら学ぶ」知識吸収の意欲に満ちた一種の野次馬精神だった。本格的・個別的な展開と言うよりも、悟性によって統括された理念的・全体的な方向性を与えるのが彼らの姿勢だった。そこには体系的秩序はなく、諸々の結果の滞積がある。ドニ・ディドロが宗教的信仰は思春期の性衝動の変形であると見なしているように、啓蒙主義は積極的なニヒリズムの運動であり、超越的な意味による秩序を解体し、知識を無意味な記号の配列へと変える。この体系は流動的な関係によりつなぎあわされている。ニヒリズムの下で関係に着目しようとするとき、人は啓蒙主義者にならざるをえない。

 啓蒙主義は反中央集権的な知識欲を持ちながら、実際には、文化の中央集権を促進した。彼らは「君主は国家第一の下僕」と言ったプロイセンのフリードリヒ二世やオーストリアのヨーゼフ二世、ロシアのエカチェリーナ二世らの自由化を促すはずだったが、各国の近代化=強国化に機能したにすぎず、上からの改革の困難さを示す結果に終わった。啓蒙主義者はルネサンス的意味におけるヒューマニストであり、あからさまに相手を叩くのではなく、諷刺と逸話を用いて批判する。この優雅さがもはや物足りない時代を迎えつつあった。再び、スコラ哲学的な喧嘩腰の論争にまきこまれる時代がやってきたのだ。フリードリヒは、ベルリンにはスパイとして訪れていたヴォルテールの『ヴォルテール自叙伝』によると、文人を利用することのみを考え、「オレンジは、絞って汁を飲んだら捨てるものだ」と言っていたらしい。あの三人がポーランドを分割したのだ。ポーランド人は日本と縁がある。日本を初めて西洋に紹介したのはマルコ・ポーロではなく、ポーランドのデ・ブリティアという僧侶である。彼は、『世界の記述』より五一年も早い一二四七年に記したモンゴルに関して紹介した『タルタル誌』の中で、「ナラ・イルゲン」という国について言及しているが、これはモンゴル語で「太陽の民」という意味である。アメリカ独立戦争の際、ジョージ・ワシントンの副官として活躍したコシューシコが分割反対闘争を指揮したが、一七九四年、ロシア軍に捕らえられてしまった。ポーランドは、ニーチェが祖先を「ポーランドの貴族」(『この人を見よ』)を自称していたように、あまりに高貴な国である。Wolno w Polsce, jako kto chce.われわれが大学に入って最初に親しくなった外国人女性は年上のポーランド人だったことを付け加えておこう。フランス語で「Sartre」を発音するように、われわれを「サット君」と呼んでいた彼女は紅茶が好きな女性だった。 反重商主義という色彩の強い従来の重農主義には、産業革命以前の発想であったため、環境に関する配慮がなかった。従来のエコロジーは工業内分業のアナロジーによって成り立っている。新たなエコロジーは自然破壊を批判する思考ではなく、新しい生き方を提起する哲学である。それは「人間と自然」といった従来の区別を無効に追いこみ、さまざまな領域を横断する。フェリックス・ガタリは、従来の環境のエコロジーだけではなく、精神のエコロジーと社会のエコロジーを加えた三位一体的なエコロジー理論を提唱し、「エコゾフィー」と呼んでいる。

 フェリックス・ガタリは、『三つのエコロジー』において、エコゾフィーについて次のように述べている。

 社会的エコゾフィーは、夫婦や恋人のあいだ、家族のなか、あるいは都市生活や労働の場などにおける人間の存在の仕方を変革したり再創造したりする特別の実践を発展させるところに成り立つ。むろん、人口密度がもっと稀薄なうえ、社会的諸関係も今日より簡略であった前時代の古い生存形態にもどるなどということは考えられない。しかし集団的生存様式を文字通り再構築する必要に迫られているのである。しかもそれは単に《情報伝達装置》の介入作用によってではなく、人間の主観性の本質にかかわる実在的変化によって遂行しなければならない。そしてその場合、単に一般的志向にとどまっているのではなく、ミクロ社会的レベルにおいても、また大規模な制度的レベルにおいても、実効性のある野心的実践を実行に移さなければならないのである。

他方、精神的エコゾフィーの方は、身体や幻想、過ぎゆく時間、生と死の《神秘》などに対する主体の関係を再創造する方向にむかわなければならない。それはマスメディアや情報通信の画一化傾向、流行順応主義、広告や各種の調査による世論操作などに対する解毒剤の役目を担わなければなるまい。精神的エコゾフィーの実行方法は、古ぼけた科学的学問性の理念にあいもかわらず取りつかれている《心理学》の専門家の方法よりも、一般に芸術家のとる方法にはるかに近いものとなるだろう。

結論としていえば、三つのエコロジーは、それぞれを特徴づける実践という観点からは互いに区別されるけれども、ひとつの共通の美的−倫理的な領域に属するもの、いわばひとつにつながりあったものとして構想されねばならないということである。三つのエコロジーの作用領域は私が異質発生性と名づけたもの、すなわち再特異化の持続的過程に依存する。諸個人は他者に対して連帯的であると同時に、他者とますます異なった存在にならなければならない(学校や市役所や都市計画などの再特異化についても同じことがいえる)。

 ガタリは現代世界の危機的現象が人間の内的・外的存在条件を貫く包括的な性格と把握し、その解決策として、従来の環境的エコロジーの概念を社会や精神の次元に拡張し、エコゾフィーという新たな社会編成のモデルを提起している。エコロジー的思考の下では、時間的にも、空間的にも、外部は存在しない。エコロジーは経済の営みとは反対すると考えられてきたが、今では、少しずつではあるものの、経済活動において欠かすことのできない視点になっている。日本農業は安全食品運動や有機農業といったエコロジー運動を無視し続け、消費者にそっぽを向かれてきた。アトピー性皮膚炎から身を守る安全食品の購入などの日本のエコロジー運動は、農業が外部不経済に対してあまりに野放しだったために、逆に、まさに草の根的であり、自主管理的である。工業的な認識・図式は多くの領域で支配的であり、すぐに破棄することは困難である。「雑草にもエコロジーがあるように、誤った思想のエコロジーというものもある」(グレゴリー・ベイトソン『精神のエコロジーに向けて』)。マルクスは分業だけではなく交通をも提起している。交通にもっと目を向けなければならない。エコロジーに工業を組みこむ。たんに環境の許容限界を調査すればすむという話ではない。自然環境の本質は(複雑な)メカニズムを超えている。むしろ、それはメカニズムをつくりだしているのだ。賢治が活喩を駆使したように、生物の生態を比喩としてそれを補い、補助金をばらまいた結果生じている農業の世界的な一極化を防がなければならない。各国の利害関係が複雑に絡みあい、これだけの餓死者を出している以上、世界的な農業政策は失敗している。農業は工業化され、農業生産物は新たな帝国主義の手段になっているのだ。

 そういった中、農業共同体の有力な実験も−−中国とイスラエル−−続いている。改革開放政策が進む中国の河南省南街村は、全国の年間消費量の一割を生産する村営の即席めん工場の収益を元手に、マオイズムにのっとった生産手段と生産物質の完全公有制を目指している。肉や卵、ビールが一定量配給され、家電、家具付きの住居の費用、光熱費、水道料金はただ、さらに、学校、診療所、老人ホーム、すべて無料である。その代わり、毛沢東選集や毛語録を職場や学校で徹底的に勉強させられ、仕事の態度や政治意識に問題があると見なされた場合、自己批判を迫られるる。村の共産党書記王洪彬は「今の社会の腐敗や不正は、すべて私利私欲から起きている。私心はすべての悪の根源だ。私心がなくなれば権力の乱用や腐敗はなくなる。私心の根源は私有制だ」と言っている。また、イスラエルのキブツは、二十世紀初頭、まだオスマン・トルコ支配下のパレスチナにやってきたロシアや東欧出身のユダヤ人が建設した共産的農業共同体である。三百ほどあるキブツの人々は全人口の三%だが、国内の農業生産高の四割を占めている。キブツではすべてが共有財産で、生活必需品はすべて支給される。各自に仕事がわりあてられ、大食堂、台所、洗濯場、果樹園や畑、学校、工場などで働いている。子供は同年代が同じ宿舎内で寝起きをともにし、夕方になると、両親と家族団欒のときを迎えられる。初代首相ダヴィッド・ベングリオンも、一時期、キブツで隠居していた。あくまでも二つとも市場経済と結びついている。これらの共同体の精神が国内で支配的になることはない。自分たちがある種のアンチテーゼであることを彼らも承知している。それは評価しなくてはならない。

 とは言っても、農民を重視し、帝国主義批判を繰り広げた毛沢東の理論には経済をめぐるものは皆無である。農村から都市を包囲するという革命路線の毛沢東主義は、本質的に、軍事論であって、農業を経済的に発展させることはできない。毛沢東主義よりソフトな形で、タンザニアの初代大統領ニエレレは、ウジャマー社会主義という農本主義を唱えた。セネガルのサンゴールと並ぶアフリカ社会主義の提唱者ニエレレは、一九六二年、すなわちタンザニアがイギリスから独立した翌年、『ウジャマー−−アフリカ社会主義の基礎』を発表し、タンザニアの社会主義化を表明するアルーシャ宣言を行った一九六七年に表わした『社会主義と農村開発』では、三段階方式による農村の社会主義化を展開した。「ウジャマー」は、スワヒリ語で「家族的連帯感」を意味しており、「アルーシャ」はタンザニアの北部都市の名前である。ウジャマーは、東西冷戦の中、外国援助が期待されたほど集まらず、また農業の近代化に要する費用がとてつもなく大きかったことにより、挫折した。一九八〇年代後半、タンザニア経済は、世界銀行とIMFの構造調整政策導入によって、ようやく持ち直すことになる。この辺の事情はJ・ルウェエマムの『低開発と産業化』に詳しく記されている。ある種の農業の工業化は必要であるけれども、計画的な農業政策でも、食料問題はたんなる生産性の向上だけでは解決できない。農業政策は、現在、世界のどこにでも、最も困難な問題である。「nudus ara, sere nudus 」(ヘシオドス『労働と日々』)。農業を見るかぎり、経済学者が預言者としてふるまえる時代はもう終わった。「長い目で見れば、われわれは皆死んでしまう」(ケインズ)。新たな重農主義はダランベール・オイラー・ラグランジュの数学理論を経済学に導入することによって成立する。近代経済学者は複雑な数学モデルは使っても、単純なものをあまり持ちいらない。ケネーの『経済表』はオイラーの多面体定理、テュルゴーの財政政策はダランベールの級数の収束性と極限概念のヴァリエーションである。

 自然の乱開発は自分たちの生活を苦しめてきた自然、さらにはより豊かな地域の人々に対するルサンチマンによって引き起こされる。そして、同じ心情から、より貧しい地域の人々や差別されている人々を安い労働力として導入する。人間はいつでも過度に復讐する。限界効用学説は、この意味で、誤謬である。いや、近代法どころか、『ハンムラビ法典』の精神さえないがしろにしている。人間は、地球全体を考えるのには、いささか短命すぎる。地球上の生物の中で、最も長生きなのは植物である。樹木は五百年以上生きることもできる。人間は植物の声に耳を傾けなければならない。植物の生態を参考・比喩として、われわれは新たな思考を生み出す必要がある。ほかの生物を知ると、人間のこともわかってくる。その意味で、この世に天災というものはありえない。すべては人災である。日本人は、戦争責任について問われて、生物学者なのでそういう「文学的のこと」はわからないと答えた人がいたように、生物学的解決が得意である。地震が起きても、ノメンクラトゥーラは、何ら積極的な対応策はとらず、被害者の寿命が尽きるのを待つだけだ。“The weak have one weapon: the errors of those who think they are strong"(Georges Bidault).自然は複雑で、多様である。そのために自然の生態はバランスが保たれている。一つの種が何かをしても、それはゆるがないようになっているのだ。自然の生き物はお互いに利用しあっているのである。ルサンチマンを持たないから、やりすぎない。栽培植物の生産性を上げようとすると、品種を改める必然性が生まれる。すると、他の植物との共生能力がなくなり、除草しなければならなくなる。雑草はあくまで人工の農業環境に生える非目的論的植物である。宮脇昭は、『植物と人間』の中で、ジャングルは人工環境に生まれると指摘している。自然を放任にしておくと、栽培植物も雑草も、生産性は落ちるが、生態系のバランスをとれる。そもそも雑草も農作物も、中尾佐助の『栽培植物の世界』によると、人工的な農地に生える植物であり、育ち方もよく似ていて、起源は同じなのだ。ニンジンはもとは雑草として、逆に、セイヨウタンポポは農作物として扱われていた。「ルーヴル宮の建築だって、カタツムリの建築ほど巧みじゃないことを、ライプニッツの微積分が君に証明してくれるはずだ。カタツムリの殻の上には、実に永遠の幾何学者が超越螺旋をまきつけているのだ」(アンリ・ファーブル)。

 マルクスは、そういう視点を認識し、植物の繁茂増殖していくイメージを持たせて「自然成長性」という概念を提示し、「自然史」を主張していた。自然史は自然科学史、あるいは歴史主義ではなく、自然成長性全体の歴史である。賢治の歴史観もこの自然史と理解することができる。賢治の自然科学は新たな理論の実証ではなく、新たな認識を追及したものだった。それは自然成長性なのだ。マルクスの考えでは、自然成長性は目的意識性と対立しない。自然成長性は到達点が認識することのできないある成長への力である。この概念は問題解決ではなく、問題生産を提起する。

 ルクセンブルクの「自然成長性」は、マルクスと違い、サーモスタットのようなフィードバック装置の図式で把握される。彼女の概念規定はグレゴリー・ベイトソンが「二〇世紀の知的革命」とまで賞賛したサイバネティックスの先取りという見方はできるだろう。こうした二項対立はマルクス主義者に限定されはせず、かつて話題になったクリストファー・アレクザンダーが『都市はツリーではない』においてツリーとセミ・ラティスとして示しているように、確かに、思考の便利な構図である。だが、純粋な二項対立は存在しない。二項の力関係は不均等で、弱い側は強い側に対する反発として設定される。これは魔女裁判に似ている。魔女裁判は、数学的には、二分方の論理に基づいている。この大きな対立は、ある時代的環境の後ろ盾があって、機能するものであり、それが消失すれば、有力な一つの極に吸収されたり、消去法的に。細分化されていく。

 人間はあまりに短絡的だ。自然は単一化は死だいうことと知っている。南アフリカの作家、E・ムパシエーレは、「南アフリカでは、黒いタールが白人に塗り込められる一方、白い要素が黒人に塗り込められている。私は自分の内部でこれら異質な諸要素を和解させてきた。白と黒の両者の統合に至るまで、南アフリカには優れた白人小説も、優れた黒人小説も生まれないだろう。したがって、アフリカ人芸術家は自分が西洋化した人間でありつつも、なおアフリカ人であるというパラドックスを体現する存在であることをまず承認しなくてはならない。このアフリカン・パラドックスとでも呼ぶべき状況を生き抜くことを、私は自分の使命としている」と言っている。「アフリカン・パラドックス」は止揚されるべき状況ではない。マルクスは、文法的なミスを冒したり、ドイツ語の変化を英語風にしたりしているものの、積極的にドイツ語以外の言語を雑然と使って、あたかも『ギルガメシュ叙事詩』を解読するように、『資本論』やそのほかの作品を書いた。マルクスは世界中の言語が混成語化するのを望んでいる。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と記した賢治もそうだったろう。日本語英語だって悪くない。ただ「ヴァージン・ロード」という言葉は勘弁して欲しい。

 賢治は、『農民芸術概論』を通じて、自分自身も後進性を理由にかつて見捨てた農民の間に蔓延する平等と尊厳の問題−−都市の住人は農民よりも洗練され、優秀であるという幻想−−にとりくんだ。それは都市と農村の対立を弁証法的に止揚するものではなかった。「斯ても生ずる争論ならばそは新なる建設に至る」。「都人よ 来ってわれらに交われ 世界よ 他意なきわれらを容れよ」。賢治は農民に反乱を起こせとは言わない。ただ都市に服従するのはやめようと訴える。支配されることも、命令されることも拒否するのだ。賢治は具体的な個々人の自律性の可能性を社会的現実の場でいかに実現するかを考えた、「自律性」は現在でも達成されていない重要な政治的要請の一つである。コルネリウス・カストリアディスは、『社会主義の再生は可能か』において、「自主管理民主主義」を提唱している。人間は自発的服従から脱却し、いかなる意味での他律性から解放されなければならない。自分で自己管理するときに自律性は達成されるのだ。勤労者は、それにはまず、生産現場を自主管理し、生産組織は国家から自律していなければならない。近代日本は、世界的に見て、自主管理民主主義を最も阻んできた体制である。自主管理を実現することが人間の重要な目標の一つであるという発想を斥けているのは、権力者に限らない。一九九八年の春に起こった所沢高校の生徒たちによる自主管理の運動をほとんどのメディア・タレントは非難した。メディアに依存しているという意味で、彼らは正直だったとも言える。学校制度が、自発的服従を生むイデオロギー装置の中で、最も重要性を持っていることに、これだけ無自覚・無知な国民も珍しい。ほかの国であれば、生徒たちの行動が、メディアを含め、熱烈な支持を獲得することは間違いない。賢治が目指したのは、そういう農民にとっての「有機的知識人」である。これはグラムシが聖職者や教師のような「伝統的知識人」と区別して新たに提示したある団体の「器官となる」知識人像、機能としての知識人概念だ。

 農民を兵隊の供給源と見ていたのは日本の軍部だけではなかった。当時のヨーロッパ、特に東欧の政府もそう考えていた。農業を中心に置く国の政府は、伝統的に、好戦的である。支配者階級は、長期に渡り、土地と人間から富と軍事力を見てきた。土地の広さと質に応じて、その土地に関係する農民の数と質が決まり、動員できる兵士の数と質も決定される。ここに領土を獲得し、保持することを信条とする領土至上主義が生じるのだ。しかし、ナロードニキの思いいれとは逆に、農民も、権力者に劣らず、土地への執着心は強く、保守的な財産所有者である。農業を考える際に、第一に、この土地信仰を払拭しなければならない。賢治は一切の要素を「併存」する方法を模索する。『農民芸術概論』はマルクス=エンゲルスの『共産党宣言』のパロディですらある。賢治が断片的にテーゼを提示するのは、農民が中央集権的に組織されることへの抵抗であり、能動的に芸術活動にとり組むことを期待するからである。賢治のテーゼを受動的に受容するものには、この企てがまとまりのないがらくたにしか思えないかもしれない。賢治はさまざまな領域から借用した論証形式を使っている。探求と叙述の論証形式が『農民芸術概論』には複雑に錯綜しているので、秩序だって見えないのだ。中央集権制は農民を受動的姿勢に追いやってしまった。中央政府は農業と農民を切り離して考え、農業は二次的な関心にすぎず、農民を優秀な兵隊と見なしていた。農村が対外戦争の前線だというわけだ。都市は後方支援基地にすぎない。ポルトガルでは、ポート・ワイン用の葡萄の刈りとり作業が、楽隊の演奏の下で、行われることを日本人には及びもつかない。開国当時、日本農業は、土地生産力において、世界最高水準を誇り、すでに膨大な経済学的知見が含まれた農業書が存在していたが、急速な工業化により農業をめぐる環境は悪化していく。

 賢治は農業から農民を把えなおす。まったく日本では主流にならなかった西洋の重農主義を導入する。西洋に東洋の論理を対置するのではなく、西洋の別の論理で対抗するのだ。それには中央集権になれた思考の解体を行わなければならなかった。「民衆の理性を−−とりわけ農民民衆を私はあまり信じない。(略)民衆の全構成単位の利害の共通性という自覚が生れないかぎり、イデアはない」(マクシム・ゴーリキー『ヴェ・イ・レーニン』)。集団的所有でも、私的所有でもなく、個人的所有に基づいた農業を経営する。小作農制、家という親子関係を中心とした世襲的な農業を独立自衛農民制へと編み変えるのだ。このアナーキーの下、賢治は諸要素の「併存」によって歴史を批評する。「批評の立場に破壊的創造的及観照的の三がある」。「破壊的批評は産者を奮い起たしめる」。「創造的批評は産者を暗示し指導する」。「創造的批評家には産者に均しい資格が要る」。「観照的批評は完成された芸術に対して行われる」。批評も賢治においては対立しない。たとえ「破壊的」文学者であっても、賢治は内包する視点を提示するのである。「文化は政治のまきぞえを食うべき性質のものではない。否、文化はその独自の立場から政治の反省をもとむべき性質のものである」(『地方文化の確立について』)。

 農民は都市との対立を好まなかったが、「併存」も望まなかった。彼らは都市への併合を選んだのである。「本当の百姓」などどこにもいない。農民だけでなく、日本人は自治を厭う。自治など面倒臭くてやってられないというわけだ。ノメンクラトゥーラにそれをおしつけるには、大義名分がいるので、「信じてますから」という信仰心溢れる言葉を告げるのである。「政治家は自分の言ったことを信じない。だから、他人が信じるとびっくりする」(シャルル・ド・ゴール)。

 “That government is best which governs least" (H. D. Thoreau “On Civil Disobedience").地方自治の日本より進んだアメリカでは次のような逸話がある。オハイオ州の農場のある小作人は、学校教育を受けた期間は一年にも満たず、大男で品の悪いジョークを飛ばすことでも知られていたが、独学で読み書きができるようになり、さらに高い教養を身につけた。同じ農場で働いていた仲間は、「彼は一日中重労働をしていたにもかかわらず、いつも深夜になるまで本を読んでいました。しかし次の日の朝は、誰よりも早く起きて、仕事にかかるのでした」、と回想している。彼は、さまざまな職を経た後、合衆国の大統領に選出された。彼の名はエイブラハム・リンカーン、合衆国史上最も偉大な大統領の一人である。リンカーンの大統領当選が決定すると、南部は分離・独立を宣言し、北部への攻撃を開始した。彼は、その動きに対して、応戦すると同時に、奴隷解放宣言を一八六二年に発表し、さらに、翌年、ゲティスバーグにおいて、決定的な演説を行った。その中の「−−この国が、神の御旨のもとに新しい自由の生誕を持つこと−−そして、人民の、人民による、人民のための政府が地上から滅びないようにすることである」という一節は民主主義の指針となっている。これが憲法の一文だと信じていたビル・クリントンが大統領になっているように、あの宣言によって、黒人が完全な平等の権利を獲得できたわけではなかった。それは初めの一歩だった。ヘーゲル主義者以外のいささかでも合衆国史をかじったものならば、われわれのリンカーンと南北戦争をめぐる言説が、「No nothing」と言うことなく、サンボ的黒人奴隷像と同様、皮相的かつ短絡的であるかを承知している。南北戦争は、近代に入ってから第一次世界大戦以前では、最大の死傷者を出した戦争だったが、その一つの原因は、大量殺戮用の銃器が発達していたにもかかわらず、依然として−−塹壕を使わない−−ナポレオン戦争の戦術が支配的だったという点にあるし、開戦にしても、終戦にしても、背景はそんなに単純ではない。われわれだって、『風と共に去りぬ』だけでなく、『目撃者』や『友情ある説得』といった映画も見ている。とは言うものの、史上初の世界美人写真コンテストを主催した『ニューヨーク・トリビューン』紙のロンドン特派員だったマルクスは、共和党の勝利と南北戦争の推移について、「ヨーロッパの労働者たちは、本能的に、星条旗が自分たちの属する階級の運命を担うと感じた」とリンカーンに祝辞を捧げている。リンカーンは積極的な奴隷解放論者ではなかったけれども、合衆国の農民は北部と南部の対立を嫌った第一六代大統領を輩出した。

 もちろん、今のアメリカだってそんなに牧歌的ではない。アメリカにおいて農民と芸術と言えば、ニール・ヤングが思い浮かぶが、彼は都会生活を抜け出して、自然に帰ることがもはやできないと認識していたにもかかわらず、カントリー・ロックの色彩が強い『ハーヴェスト』を発表している。実は、病気のため、ギターを十分に弾くことができず、不本意にもこういうスタイルになってしまった。ニール・ヤングは、後にカントリー・ロックのスタイルを捨てていく通り、これによって、農業が自然破壊を避けることは難しく、都会生活の疲労を癒す農村など観光パンフレットの中くらいにしか存在しないのだと諷刺したのである。

 賢治も、『農民芸術概論』において、農民の、農民による、農民のための芸術を唱えたのである。しかし、この理論は彼の生前、そして死後も長い間、振り向かれることはなかった。「そして地方精神の悪弊、亜流の精神を取り去り、自らの思考を全日本的な宇宙的な高さに於てもとめることを忘れてはならないと思う。この意味に於て、私は先ず地方文化の確立に就いては、東京の亜流となるな、自ら独自の創造をなせという月並みな文句が、然し真実必要な言葉と信じている」(『地方文化の確立について』)。中上健次が「熊野大学」を始めたのも、おそらく、こうした理由だろう。“All right, then, I’ll go to hell" (Mark Twain “The Adventures of Huckleberry Finn").

 文学界において、あまりに早く正しいことを明確に言うべきではない。文学者は文学的、すなわち曖昧であるから、抜け目のないものは佳境の雰囲気を迎える直前に、すかさず、パレードの先頭に立ち、後かたづけが始まるころには姿をくらますことを繰り返して、一生をもたせるのである。この嗅覚たるや、ノメンクラトゥーラも顔負けだ。ニコデモであったか、もしくはサウルスがパウルスになるというわけだ。昼間にランプを持って「私は人間を探している」と歩きまわった奴隷で浮浪の哲学者ディオゲネスのように、かつて賢治が一人で祈祷してまわった街で、彼の「生誕」百年を記念する馬鹿騒ぎは起きた。われわれはこういうベタなネタを扱うものが嫌いである。「有益なる怠慢」は終演したのだ。賢治の農民芸術は「芸能宗教」(リヒャルト・ヴァーグナー)ではない。ニュージーランドには、信者が一人で開祖も兼ねる宗教が百弱あるが、日本の宗教界に比べると、そのほうが、賢治的な意味において、はるかに健康的な状態にある。「新しい自由の生誕を持つ」賢治のパレードはまだ始まったばかりだ。そこには誰でも参加できる。このパレードは「移動」し続け、「永久」に「未完成」である。「永久の未完成これ完成である」。だからこそ、われわれはカール・ショルの次の言葉を賢治に捧げるのである。「君の肉体は、われわれすべてを生んだ母なる大地に帰るが、君の精神はわれわれの最も神聖な、奪うことのできない遺産として温存されよう」。

〈了〉

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